たった一言

こちらの正義は相手の悪義で、世の中に「絶対的な正義」は存在しない事を学んだのは、少なくとも子供の頃ではなかった。

 

最初にそれに類する事に触れた記憶は社会人一年生の時だった。 職場の他の課の課長だったが、物静かな哲学的な人だった。 冷静な語り口で「他人の不幸は自分の幸せだ」と言う言葉を聞いて、まだ若くて今よりは純粋だった私は少なからずショックを受けた。 何て不埒(らち)な事を言うんだろうと思ったが、よくよく考えてみたらまんざら間違ってはいないと感心したのを覚えている。

 

日本と中国や韓国の歴史の中に残る確執とか、中東の宗教上の聖地を巡っての歴史的対立とか、世界中に国家間のいがみ合いは沢山存在している。 これらの問題はどちらが正しいかと思い、冷静になって歴史を紐解いてみるが、結論の出しようがない。 それは、どちらの立場に立つかと言う事以前に、何時を問題の発端と考えるかによって話は180度変わってしまうからだ。 要は相手がやった事への仕返し合戦が延々と続いて来ているのだ。

 

「最初にきっかけを作ったのはお前だろ?」と相手にそもそもの事の発端を作った非を認めさせる事の押収だ。 そんな議論や争いをいつまでも、ケースによっては2000年以上も続けているなんて、何処かで立ち止まって「これでいいのだろうか」と自分に問う事は無いのだろうか。 どこかに落とし所や妥協点を作ろうかと探る動きもなく、延々と争いを続けて疑問に思わないのだろうか。

 

お互いの人生は限られているのに、最後まで争い続けてあの世に行くつもりなのだろうか?  そもそも過去に自分が始めた争いなら、初志貫徹で頑張り通すのはわかるような気もするが、過去の人達がまいた種をどうしていつまでも無条件に背負い込むのだろう。 先人たちの想いが大切なのはわかるが、少しずつ冷静に前向きに考えて行けない物かと思ってしまう。

 

ところで、以前に知人と意見が対立して半ば喧嘩のようになって気まずくなってしまったと言う経験があった。 そんなに深刻な話ではなかったが、その人を思い出すと意見が衝突した時の場面が頭の中に去来する。 

 

それまで仲良くして来たのに、その時以来遠ざかってしまった二人の関係。 一言、相手の意見も認めてあげるとか、言い過ぎを詫びるとかすれば、二人の間のわだかまりは氷解しただろうに、意地を張り合っていたのだ。 たった一言、小さな譲歩がすべてを解決してくれたに違いない。

 

こんな問題を解決できなくして、歴史上の国際問題など解決できる訳ないのだと思う。

 

たった一言が出なくて気まずい思いをする事もある。 結構良くある事ではないかと思うが、特に近隣の人間関係が薄い都会での話である。 散歩中に他人とすれ違う。 向こうの様子から仕事で急いでいる訳ではなく、同じように散歩している様子である。 お互いにすれ違う時目線のやり場に苦労して、緊張度は上がる。 すれ違って相手が後ろに去って行く。 ほっと安堵感に近い思いをする。 

 

たまに「おはようございます!」と声を掛けて来る人がいる。 自分はハッとして「おはようございます!」と声を出し挨拶を返す。 とてもすがすがしい気持ちだ。 もちろん逆の事もある。 こちらから声をかけると、相手が途端に表情を緩め親しそうに「おはようございます!」と返事を返してくれる。

 

もちろん数百年も二千年も続いている確執がたった一言で解消するとは思わないが、状況によっては関係改善の大きなきっかけになり得ると思う。 

 

私が25年前、初めて仕事で仕方なく行きたくもない韓国に渋々と行った事があった。 反日感情に溢れ敵意に満ちた韓国人に石を投げられると思っていたら、空港から乗った個人タクシーの年配の運転手が日本語で優しく親しげに話をして来て、一瞬にして身体のこわばりが取れた。 それをきっかけに数日間の滞在中に負の先入観が氷解して行った。 その後韓国語を猛勉強し、韓国ファンになった。

 

そんな小さな事の積み重ねが歴史を変えてくれる事に望みを託している。

 

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