どんなきっかけでこの場を見つけ、エッセイを書くようになったのか、細かいことは覚えていない。 ただ、漠然と現役を引退した心の空虚感を埋めようとしてペンを執ったことだけは間違いない。
私は自分勝手に、やりたいことに熱中して生きてきた男なので、家族には散々迷惑と負担をかけてきた。 そんな私にとって、ここは反省と懺悔の場として必ずや通るべき運命の場所であった。
今は新しい、すっきりとした気持ちで毎日綴っているが、私にとってはとても大切な生きがいを感じられる場となっている。 初めのうちは、自分が何をしているのか分からず、ただ書くことが習慣になっただけだと思っていた。
しかし、日々の生活の中で書くことに大きな比重を置いている自分を見ていると、もっと深い意味を持った必然性があり、それが私を突き動かしていることに気づくようになった。
自分の人生を振り返ると、「ふつふつと湧いてくる思い」が原動力になっているのだ。
そんな思いを言葉にして書き残すのは、何のためで誰のためなのか。
それはあまり考えたことが無い。 ただ、心の中でぐつぐつと煮立っているものを形に仕上げるためであり、それは自分のためだとしか言いようがない。
心の中から煮立っているものを取り出すたびに、心は軽くなっていく。 より穏やかな気持ちになると同時に、新しいことを消化していく余裕が生まれる。
あえてブログで公開しているのだから、人に見せたい気持ちはある。 だが、不思議なことに、評価されたいからではない。 「スキ」が多ければもちろん嬉しいが、それが目的でも目標でもない。 極端に言えば「スキ」が毎回ゼロでも書き続けるだろう。
私は昔から、「一見無駄で、わざわざする意味がないこと」に夢中になる癖がある。 息子が遊びに来て私の部屋に入ると、棚にぎっしり並んだ趣味関係の資料ファイルや、壁に張り巡らされた数々の表やグラフを見て唖然とする。
「なぜ? 仕事でもないのに、誰の、何のためにこんな面倒なことするの?」と、彼には到底理解できないようだ。
私の人生で、情熱を燃やすということは必ずしも有益である必要はなかった。 むしろ、人がやらない、一見無駄に見えるものにこそ価値を見出すことが多かったように思う。
私は、noteを気に入っているもうひとつの理由がある。
それは、何台ものハードディスクに眠っているフォトグラファー時代の資産を、エッセイのトップ画像として活かせることだ。
できる限り、そのエッセイのテーマと画像がどこか説明でつなげられるようなものを選んでいる。
仕組上、画像をクリックするとモニターいっぱいに拡大して観られるのがありがたい。
多くの記事では、タイムラプス作品の一コマや、その撮影風景のスナップ写真を採用している。 また、若い頃から趣味で撮影してきた画像の中に相応しいものがあればそれを使うこともある。 たくさんある画像資産を眠らせるのではなく、少しでも生かせることはとても嬉しい。
そして何よりも、異なる価値観や考え方を持ち、異なる生き方をしている人たちの声が聞けることが素晴らしい。
noteを散策してみると、実に多様なスタイルの投稿に出会う。
投稿者はそれぞれ異なる動機や目的で、異なるカテゴリーの作品や記事を投稿している。
紹介記事、分析記事、チュートリアル、小説などさまざまで、創作意欲に燃えて執筆を続けている人もいる。
また、収益化に軸に活動している人も多い。
どんなスタイルであろうと、自分のスタイルで自由に利用できるのがありがたい。
心の中でぐつぐつと煮立っているものが残っている限り、私はこれからも自分のために心の奥底から湧き上がる思いを言葉にし続けるだろう。
そうして心を軽くし、穏やかな気持ちを保ちながら、新しい出会いも受け止め、消化していけるように。