1960年代に子供たちの間で流行した「時間よ止まれ!」という言葉があった。 手塚治虫原作のNHKドラマ『ふしぎな少年』で、主人公が時間を操る際に唱えたセリフがヒットしたものだ。
小学生だった私は、近所の子どもたちと一緒によく「時間よ止まれ!」ごっこをして遊んだ。
みんなで一斉に走り回り、「鬼」が「時間よ~~」と声を延ばしたあと、「止まれ!」と叫んだ瞬間にぴたりと止まれなかった子が負けとなり、次の「鬼」になるという遊びだった。
今、私は「テクノロジーよ、止まれ!」と心の中で叫んでいる。
アメリカのAI研究企業Anthropicが最先端モデルを開発しながら、一般には公開しないと決めたのは驚きだった。
先進AIの開発者自身が、「AIが人間より先に行き過ぎてしまった」と感じ、リリース先を厳選し、兵器への応用を求める政府に背を向けている。
もし戦争に投入されれば、人を殺す判断まで全自動で行い、攻撃を続けてしまう ーー 聞くだけで気後れするような話だ。 本来なら積極的に売り込むはずの商品に躊躇しているというのだから、今私たちが普通に慣れ親しんでいるAIは、まだ「子どものような存在」なのかもしれない。 だが、そのようなAIの登場は素人の私ですら予想していた。
AIに限らず、今は日常生活を取り巻くさまざまな大切なものが、テクノロジーによって予想もしなかった姿に塗り替えられている。
小学校三年生の孫は、チャンスさえあればタブレットPCでYouTubeに夢中になる。 検索や操作は手慣れたもので、反射的に素早く扱う様子は、まるでプロのエンジニアに変身したかのようで驚かされる。 誰も教えたはずないのに、子供が持っているどのようにでも吸収し染まることのできる潜在能力に、不気味さすら感じてしまう。
テレビに映った家庭の食事風景では、小学校低学年の子どもが食卓に可愛いタブレットを立てかけ、画面に夢中になりながら家族と食事をしていた。 その食卓で親子のコミュニケーションが豊かに育つとは思えない。
子どもは心ある両親にしっかり管理されれば、なんとかなるかもしれない。 しかし、大人もまた歴史を塗り替えている。 歩行時も電車の中でも、片時もスマホを手放さない。 下を向いて画面を見たまま歩き続ける姿は、外から見るとまるで魂を奪われたロボットのようだ。
テクノロジーの進化は、今まで不可能だった数えきれないことを可能にしてきた。
生活は間違いなく便利になり、人類は新しい世界を知ることができた。 その恩恵は計り知れず、百年前の人からすれば間違いなく「宇宙人の世界」に見えるだろう。
しかし良薬も飲み過ぎれば「Over doze(過剰摂取)」という問題を引き起こす。 特に精神的影響が懸念されるようになる。
スマホについては「依存症」という形で既に顕在化しており、その予備軍は幼稚園児のころから着々と育っている。
今の親たちも、私たちの世代以上に、のめり込む子供たちを見て懸念している人は多い。 そして何をどこまで制御すべきか手探りをしている。
時代の変化について行くためには、検証の体験も必要だ。 だが、その間に世の中が過度に進化すれば、問題解決はさらに難しくなる。
私には、世の中は地に付けていた足を離し、上滑りしながら行く先すら見失っているように見える。
だからこそ今、私は叫ぶ ―― 「テクノロジーよ、止まれ!」