小説家が原稿を「少し書いては破り捨て、また書く」をくり返し、「私の才能は、もう枯れてしまったのだろうか」と苦悩する姿は、昔から映画やドラマでよく見てきた光景だ。
おそらく、小説に限らず、音楽や絵画など、いわゆる「芸術」と名のつく創作の世界では、どこでも見られるに違いない。
私は「芸術」というにはあまりにも稚拙なエッセイを「創作」しているに過ぎないが、それでも同じような状況に何度も追い込まれてきた。
「もはやこれまでか」と腹切り包丁を取り出す直前まで行ったこともある。 だが、投稿予定日の前日の午後になって、突如として思いが言葉になって天から降りてきた、ということもあった。
そんなことを繰り返すうちに、もしかしたら「考えが出てこない空白の時間」は、無駄に過ぎているのではなく、見えないところで「言葉にして描きたい」ものが静かに熟成している時間なのではないかと思うようになった。
事実、現役を引退した自由の身の私は、四六時中エッセイのことを考えている。
それは、「エッセイを書きたいのでそのネタを探している」のではない。
「人生の中から、自分が残したい言葉は何か」を探しているのだ。
夜、夢の中で文章を仕上げようと一生懸命に推敲しているときがある。 朝、推敲しながら目覚めることもある。
それらは目が覚めた瞬間にあれよあれよと言う間に忘れてしまうので、続きを書くことはできない。
しかし、もしかしたらあれは、頭の中で話題の酵母菌がじゅくじゅくと音をたてて発酵している証なのかもしれない。
芸術家が、創作できない苦悩を語った言葉を調べてみるといくつも見つかった。
・ 三島由紀夫「書けないことほど、作家にとって残酷な罰はない」。
・ 太宰治「書けぬ、書けぬ、書けぬ。だが書かねばならぬ」
・ フランツ・カフカ「書くことができないということは、私にとって死と同じだ」
さらに、その苦悩の時期を「前向きに」語っている芸術家の言葉があった。
・ モーツアルト「沈黙の時期のあとに突然旋律が降りてくる」。
・ リルケ「書けない時期こそ、魂が形を変える時期だ」。
・ 村上春樹「書けない時期は、地下で根が伸びている時期だ」。
私は、この最後の三人の言葉が気に入った。
私の「苦悩」の状態を説明してくれているように感じたからだ。
創作とは「自分の心の中から自分の思いを絞り出す」行為だ。
そんなものが、鶏が卵を産むように、いつもコロコロ出続けるわけがない。
創作はいつも「生みの苦しみ」を伴うものなのだ。
先人たちの苦悩の言葉を読んでいるうちに、私は俄然気持ちが楽になった。
そしてなぜか自分を信じられるようになった。
今は、必ず「熟成中の酵母菌」が静かに働いてくれていると信じている。
いつ発酵が終わるかは分からないが、焦って蓋を開ける必要はない。
必ずぷしゅっと音を立てて言葉があふれ出す瞬間が来る。
その瞬間を信じて、目を閉じて待つことにしている。