赦しのための、人生の最終章

「人間は何のために生きるのか」という問いほど、繰り返されてきた哲学的疑問は他にないだろう。

私の大好きな『男はつらいよ』で、高校三年生の満男が寅さんに同じ質問をする場面がある。原作者・山田洋次の哲学は、「ああ、生まれてきてよかったなと思うときが何度かある。そのために生きているんじゃないかな」と寅さんに答えさせた。

 

このなんとも答えようのない遠大な問いに対して、ストレートに人間の生き方の核心に触れたこの答えは、予想を裏切るほど簡潔で素直な結論であるだけに、深く心に残る。

 

誰でもこの問いに何度も直面し、悩み、正解を得ないまま歳を重ね、やがてその問いは「自分は何のために生きてきたのか」に変わる。

自分の人生を偽りなく振り返り、それで良かったのかと考え悩んだところで、歩んできた人生が変わるわけではない。しかし、人は誰でも自分の人生を少しでも肯定したいものだ。

そこで、実際に評価されるべき生き方をしてきたのか確認したくなる。

 

自分の過去を100%評価し、満足できる人は本当に幸せな生き方をしてきた人だろう。普通は、大なり小なり反省点や悔いが残るに違いない。

 

もう人生ここまで来て難癖をつけなければいけないのだとしたら、後は自分の中にあるものすべてをさらけ出して最終章を飾るだけである。


しかし、不思議なことに私はそのどちらでもない。

「自分は何のために生きてきたのか」という問いには、「自己実現のために生きてきた」と答えよう。

「それで良かったのか」と問われれば、「それでは良くなかった」と答える。

「悔いが残るのなら、ここからすべてをさらけ出して最終章を飾りたいか」と聞かれたら、「もう、そういう自分だけをさらけ出すような生き方はしたくない」と答える。

 

つまり最後に捨て身の爆走をするかどうかは、今までの人生で抱えてきた難癖の大きさが左右する。

客観的には大した難癖などつかない生き方をしてきた人こそ、最終章で捨て身の爆走を選ぶ。

私のように難癖と悔いの塊の生き方をしてきた人間は、自分からすべての力を抜き去る。自分という人間の「恐ろしさ」を身をもって体験してきたからである。


私の従妹のひとりは天真爛漫な人だ。いつも口癖のように、「残りの人生、思いっきり楽しまなくっちゃ」と言う。そのテンションの高さには圧倒される。

彼女は雄弁に自分の生き方を語るが、裕福な大家族の中で厳しく育てられた、しっかりとした女性である。品行方正をそのまま絵に描いたような人だ。少なくとも私の目にはそう映る。

 

だからこそ、人生の最終章を迎えたいま、大胆で勇敢な言葉とともに体当たりしていくような気持ちで高揚していられるのだと思う。

 

人生をわがまま放題に生きてきた人間は、まったく違った気持ちで最終章を迎える。それは両手・両足を縛り、赦しを請うことから始まる。もはや自分のために生きようとは考えず、静かに自分が他人のためにできることを探り、それがどんなに小さいことでも、ひとつずつ積み重ねながら最終章を描いていこうとする。

 

こういった私のような人間にとって、最終章は「赦しの章」である。

私はその赦しの中で、静かに終わりを迎えにいく。

 

 

コメントする