老いの境界線を見つめる ―― 自覚できないその「始まり」

認知症状のある一人暮らしの高齢者を狙った詐欺犯罪が後を絶たない。自分の親や祖父母ほどの年齢の人々を騙し、金をむしり取ることに何のためらいも覚えない者たちは、もはや人間の屑と呼ぶほかない。そして被害者の立場に立てば、なぜあのような稚拙な言動に簡単に騙されてしまうのか、悔しさが込み上げてくる。

 

かつては社会をしっかりと渡り歩いてきたであろう人が、いつの間にか別人のように変貌してしまう。その境界は、ある日突然訪れるのではなく、長い時間をかけて少しずつ忍び寄ってくるのだろう。彼らもまた、かつては身近な認知症の人々に無念の思いを抱き、老いがもたらす非情な結末に胸を痛めていたに違いない。


こうした普遍的な社会現象を見ていると、私自身の記憶の傾向にも目を向けざるを得ない。夫婦そろって古希を過ぎる頃になると、お互いに記憶に怪しいことが度々起きてくる。最初は妻が私に対してする指摘を笑い飛ばして済んでいたが、次はその妻を私が指摘するような事態が起きてドキッとする。結局お互いに笑ってごまかすのだが、そんなことが何度も続くと、これは「笑えない笑い話」だと気づく。

 

最近になって、夫婦でいることの大きなメリットを痛感するようになった。私はもともと、興味や関心のあることだけを強烈に記憶し、それ以外は脳の空き容量を確保するかのように忘れてしまう傾向がある。だから、忘れていることを指摘してくれる存在がいることは、想像以上にありがたい。もし私が一人で暮らしていたら、もの忘れや誤解、誤記憶をしていることにすら気づけないだろう。親しい友人三人はいずれも未婚の独り暮らしであり、今の自分に照らすと、他人事ながらその状況を思って心配になる。

 

人からの指摘でわかってきたことだが、私はもともと記憶の偏りがかなり強いようだ。興味のあることはいつまでも詳細に覚えている一方、そうでないことはあっさりと忘れてしまう。好意的に解釈すれば、脳が自動的に優先順位をつけているのだろう。

  

普通の人なら、社会生活の中で人との関わり合い ―― お世話になったとか、一緒に想い出を作ったとか ―― を一番大事にしていると思うが、私の中では順位は必ずしも上位ではないようだ。

 

しかし、自分の都合で記憶に「残るか残らないか」が決まるのは、決していいことではない。常識的な社会生活を営む上で、人からの信頼関係にも悪影響を与えかねない。まだ、認知症状がないと思われている今が一番やっかいかもしれない。一見常識的そうに見えている人が、特色のある記憶偏向を持っていて、しかも加齢でそれ全体が悪化しつつあるのだから困ったものだ。


自分は今の自分の状態を正しく把握していると願いたいが、問題はここから先だ。認知症になる人は、「今日も認知機能が少し落ちた」と自覚するのだろうか。何も感じていないのに、周囲から見れば認知機能が確実に低下しているとしたら、それは恐ろしいことである。

 

いまこうして文章を書いている私は、実は周囲から見ればすでに重度の認知症なのかもしれない ―― そう考えると、絶望に近い感情が湧き上がる。

 

私が希望的目標としている寿命は、二人の叔父が達成した九十七歳である。そこまであと二十三年もある。

果たして私は、この恐れを抱えたまま生き続けるのだろうか。

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