もう送らないと決めたラブレター ―― 山田洋次監督へ

『男はつらいよ』の感想文の形となったエッセイを、私は印刷して山田洋次監督宛てにファンレターと共に送った。 どうしても私の感動を伝えたかったのだ。

 

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しかし、投函した直後から、後悔が始まった

その後悔は日が経つほどに薄れるどころか、むしろ強さを増して行った。

 

改めて第一作から作品を見返し始めると、一本見るたびに「ああ、この点は書くべきだった」という思いが次々に湧き上がる。

最初のうちは、「少しくらい漏れがあっても仕方ない」と自分をなだめていたが、語り切れなかった自分を責める気持ちは日に日に重くのしかかってきた。

 

気を取り直して次の作品を見ても、すぐに新たな発見が胸を揺さぶり、また別の後悔が生まれる。

 

やがて私は気づいた。

その後悔の根は、作品の見落としではなかった

私は、山田洋次という「一人の作家の奇跡」には、ほとんど語れていなかったのだ。

 

監督が如何に常人ではない、卓越した才能を持つ存在であるのか ―― その核心を伝えられなかった自分への自責の念だった。


科学技術信奉者だった私が、空想の世界に没入していた

 

私は普段、小説をまったく読まない。 文学とは縁遠い人間だ。

いつも小説を読みふける妻に対し、「そんな作り話に夢中になってどうする」と言っていたほどの、科学技術信奉者である。

 

そんな私が「男はつらいよ」に夢中になっている姿を見て、妻があるとき言った。

 

「寅さんって、作り話じゃないの?」

 

その一言は、胸に刺さった。

確かにそのとおりだ。 私は「作り話」に何十年も心を奪われていたのだ。

 

私の論理で言えば、映画も「動画化された作り話の演劇」にすぎない。

しかし私はそこに、疑いも迷いもなく没入していた。

理屈ではなく、心は正直に動いていたのだ。


山田洋二という世界に触れたとき

 

『男はつらいよ』を見ていて、いつも感銘することが三つある。

 

史実や民俗・社会学的専門分野への深い見識

これは、世の中を深く学び続けてきた人間にしか到達できない領域だ。

それは、机上の知識ではなく、長い時間をかけて人間と社会を見つめてきた者だけが、自由に語ることができる世界だ。

 

人の運命や感情の描き方に宿る、山田洋次独特の価値観

ゴッホに画風があり、モーツァルトに曲風があるように、山田洋次には独自の価値観・人生観・世界観、そして美学がある。

完全より不完全、完成より未完成、成功より未達、奪うよりそっと飾っておく ――

そんな美学が、作品の隅々にまで息づいている。

山田作品は、人生の「余白」にこそ真実があることを教えてくれる。

 

原作・脚本・監督をひとりで担うという奇跡

映画をつぶさに見ていると、この三つの役割が見事に一体化していることが手に取るように伝わってくる。

 

・ 原作者は物語の核心を創り出す。

・ 脚本家は登場人物の息遣いを描く。

・ 監督は表現のすべて描き上げ、責任を持つ。

 

この三役を一人で担うことは、ひとつの完璧な世界観を生み出す。

世界観の純度を極限まで高めることができる。

音楽に例えれば、作曲と演奏と指揮を一人でこなすようなものだ。

 

映画界に三役兼任の例は少なくない。

しかし、同じ俳優たちが歳を重ねながら四半世紀にわたって続いた壮大な人生物語を、ひとりの作家が原作・脚本・監督として描き続けた例は、世界を見渡しても他にない。


後悔は語り切れない作品への愛が生んだ、心の答えだった

 

私は、過去の感想文で何も描き切れなかった自分の思い ――

特に、書いた瞬間から後悔が始まるという経験を繰り返すうちに、

これはもう、純粋な「ラブレター」なのだと思うようになった。

 

青春時代、胸を焦がしながら彼女に宛てて書いた手紙。

何度書き直しても「これでいい」と納得できなかった、あのもどかしさ。

 

その感覚が今もなお、私を青年のままに引き留めてくれている。

そして、私の心が発したその正直な声は、いつまでも「それですべてか」と問い続けることをやめそうにない。

 

それが悶々とした気持ちを生み出していた。


ところが、何度も自分のラブレターを読み返しているうちに、私はたいせつなことを見落としていたことに気づいた。

 

第四十四作『寅次郎の告白』の中で、満男がガールフレンドの泉に、寅さんの恋がいつも途中で終わってしまう理由を説明するくだりを思い出したのだ。

 

「綺麗な花が咲いているとするだろ?

その花を、そっとしておきたいとなぁっていう気持ちと

奪い取ってしまいたいって言う気持ちが男にはあるんだよ。

あの伯父さんは、どっちかっていうと、そっとしておきたいなっていう気持ちの方が強いんじゃないかな。」

 

そうだった、と私は自分が恥ずかしくなった。

 

まだ私は分かっていなかった。

自分はいつも「完成・完璧・成就」を目指し、そこに価値を見出して生きてきた。

山田監督の振り絞るような心の声を、理解しているつもりで実は自分の血肉にはなっていなかった。

 

このラブレターは、不完全・未完・未達でいいのだ。

語り切らないでいいのだ。

それが分かっていないでラブレターに固執していた自分が、山田監督に恥ずかしいと思った。

 

間違っても、このラブレターをまた監督に送ることだけは絶対にしない ――

そう心に誓った。

 

なんだか、とてもすっきりした気持ちになった。

 

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