人生で、自分が何を誇りに思うかなどどうでもよく、楽しく生きられればそれでいい、と考える人もいるだろう。
しかし、誇りとは、自分の人生を肯定するための大切な支えではないだろうか。
誇りとは何か
人には人の数だけ生き方があり、他人と比べて優劣をつけられるものではない。
だからこそ、自分が自分として納得でき、説明がつき、幸せだと思え、「生きてきて良かった」と言えるものがほしい。
その人の価値観に根差した、胸を張れる自分の姿。
それが誇りだ。
誇りは語る相手を必要としない。
決して人に見せて自慢するためのものではない。
自分の内側にそっと置かれた「心の支え」だからだ。
ここが、他人の目を意識せざるを得ないプライドと決定的に違う。
プライドはどうしても外側の視線を前提にしてしまう。
「どう見られるのか」「どう評価されるのか」という他者の基準が入り込み、
自分の価値を他人の尺度に預けてしまう危うさを持つ。
誇りはその逆である。
誰に示す必要もなく、誰に証明する必要もない。
むしろ語らないからこそ強く、静かで、揺るがない。
誇りとは、自分の人生を肯定するための内なる支えなのだ。
若い頃には、誇りはまだ形になりにくい。
その歳なりの思いはあっても、それがその人の誇りとして定まるには、人生の大半を通り抜ける時間が必要だからだ。
誇りの元となる価値観は、建築中の家のようなもので、若い内にはまだ骨組みも整わず、どんな姿に完成するか分からない。
誇りとは、それほど重さと中身を伴うものなのだ。
誇りが生み出す矜持
人に認められなくても、自分の価値観を大切にし、自分の生きざまに納得し、それを自分だと肯定し、その姿を具現化しようと、その人らしい筋の通った生き方をする。
そしてその生き方を一歩前に押し進め、貫き通そうと務めることを「矜持を貫く」と言う。
矜持ある生き方に心を打たれるのは、その背後に静かな誇りが宿っているからだ。
その内なる誇りを守り通そうとするひたむきな生き方は、人の心をつかむ。
誇りと矜持は裏腹の関係にある。
誇りとは、生き方の根を支える見えない柱なのだ。
誇りが持つ意味
自分の人生に対して他人が与える評価には、大した重要性はない。
人それぞれ価値観は違うのだし、ものの見方や考え方は無数にある。
私は他人の評価は気にはなるが、だからと言って自分の考えを変えることはない。
結局、自分の人生の責任をとるのは自分自身だ。
だからこそ、自分で自分を納得させる考えが一番大切になる。
自分が良いと信じるものであれば、それでいい。
自分の価値観に反する行いを続ける人は、胸を張れない。
それが誇りの本質をよく示している。
ものを言わない主張。
他人と闘わせない主張。
自分が自分の姿勢で具現化する主張。
ひとりの人間として、自分自身に恥じない生き方を自らに主張し、自分自身を鼓舞できるのは、自分が確たる価値観を持っているからに他ならない。
堂々と生きている人の姿はどこか神々しくて眩しい。
他人には何も語らず、その人が胸の中に秘めているものを言葉にしないからこそ美しい。
価値あるものは自然に滲み出て、その人の姿に重なって見える。