日本の情(じょう)、韓国の情(じょう) ―― その違いに触れて

韓国語を学び始めたのは、今から二十七年前のことだ。 独学だったが、近くて遠いと思い込んでいた国が、実は日本と驚くほど深く結びついていると知った瞬間、私は飢えるように勉強を始めた。

 

どんな言語でも、文字が読めて、言葉が聞き取れるようになると、世界との距離は一気に縮まる。 それまで厚いガラス越しに眺めていた風景の中に、自分の足で踏み込んで行くような感覚がある。 韓国語もそうだった。 音と文字が意味を持ち始めるにつれ、韓国という国が、地図上の隣国ではなく、「声の届く場所」になっていった。

 

やがて、趣味を通じて、あるいは旅先で偶然知り合って、韓国人の友人が次々にできた。 彼らと親しくなるほど、文化の違いに驚かされることが増えたが、その驚きがまた新しい興味を呼び、私はますます韓国という世界に惹かれていった。


ドラマとパンソリが教えてくれた韓国の情念の世界

 

当時は、今のように地上波やBSで気軽に韓国ドラマが観られる時代ではなかった。 韓国の放送局の有料チャンネルをCSで契約し、面白そうな映画やドラマを片っ端から留守録しては、帰宅後にまとめて観るのが日課になった。

 

「一つの番組しか録画できない大きなビデオ・カセットテープ」を入れたビデオデッキを三台並べ、それぞれで別のドラマを録画していたのだから、今思えば少し滑稽でもある。

 

コメディ・ドラマもあったが、多くは日本ではあまり見ることのない、愛と憎しみと金が絡み合う、情念の濃い作品だった。 登場人物たちは、喜びも怒りも悲しみも、容赦なくむき出しにする。 一度見始めると、私はその世界に引きずり込まれ、登場人物の激しい感情の揺れに、自分の心まで振り回されるような時間を過ごした。

 

一方、「冬のソナタ」や「秋の童話」など、韓国ドラマの純愛路線を代表する作品もある。 それらには日本映画ではなかなか見られないほどの、美しく胸を打つストーリーと描写が溢れていた。 私は深く心を揺さぶられ、どれほど涙を流したかわからない。

 

やがて、そうしたドラマとは別のところで、私にとって決定的な作品に出会うことになる。 友人がくれた映画のDVDだった。 韓国人なら誰でも知っていると言われる、1993年制作の映画『西便制(ソピョンチェ)』だ。 この映画を通じて私は、パンソリと呼ばれる韓国の伝統的な「演劇的歌謡」の世界を知った。

 

韓国人の感情を映すパンソリ──恨(ハン)が教えてくれた心の深層

 

パンソリは、単なる歌でも、語りでもない。 一人の歌い手が、太鼓のリズムに乗せて物語を語り、歌い、叫び、嘆き、笑う。 その声には、個人の感情を超えた、どこか運命共同体の叫びのようなものが宿っている。 私はパンソリに触れたことで、韓国人の心情の世界に、ぐっと近づいたように感じた。


韓国人の友人たちとの交流で体感した「情(じょう)」

 

それまでに、何人もの韓国人から、同じ言葉を聞かされていた。

 

「日本人には情(じょう)がない。」

 

初めのうちは、その言葉の真意がよく分からなかった。 日本でも、「都会には人情がない」とか、「昭和の頃に比べて、隣近所の情が薄くなった」といった嘆きはよく耳にする。 しかし、日本社会をそれほど深く知っているとは思えない韓国人たちが、口を揃えて「日本人には情がない」と言うのは、意外でもあり、どこか引っかかるものがあった。

 

韓国人の友人と親しくなり、彼らの家を訪ね、長い時間をかけて話をするようになるにつれ、その言葉の意味が少しずつ見えてきた。 そこで語られている「情」は、日本語で私たちが使う「情」とは、明らかに別物だったのだ。

 

私がその違いを、頭ではなく身体で理解し始めたのは、韓国語で話しかけられるようになってからだ。 それまでは、英語で会話をすることが多かった。 英語で話しているとき、彼らは礼儀正しく、親切ではあるが、どこか一枚ガラスが入っているような距離を感じることがあった。

 

ところが、私が拙いながらも韓国語で話しかけるようになると、彼らの反応は目に見えて変わった。 笑い方が変わり、声のトーンが変わり、肩を叩かれる回数が増えた。 冗談の質も変わり、遠慮のないからかいが飛んでくるようになった。 彼らの世界、彼らの「ウリ(我々)」の中に、私の片足がようやく踏み入れられたのだと感じた。


静かな情と、絡み合う情

 

日本で言う「情」は、相手を思いやり、気持ちを通わせる、内面的で静かな感情を指すことが多い。 相手を傷つけないように距離を保ちつつ、そっと寄り添うような優しさ。 それは、時間をかけて少しずつ温度を上げていく、弱火の鍋のようなものだ。

 

一方、韓国で言う「情」は、それよりはるかに濃く、強い。 それは、個人と個人を包み込むというより、最初から人と人を太い紐で結びつけてしまうような、共同体としての感情だ。 日本的な情が、相手の外側から静かに包む毛布だとすれば、韓国の情は、同じ布団に潜り込んでくるような近さがある。

 

韓国人は、相手との距離をぐっと詰めてくる。 日本人なら「そこまで踏み込むのは失礼ではないか」とためらうような領域に、ためらいなく入ってくる。 家族のこと、金のこと、仕事のこと、健康のこと ── 日本人なら口をつぐむ話題にも、平気で踏み込んでくる。 それは、単なる干渉ではなく、「ウリ」という共同体の内側に相手を引き入れようとする動きでもある。

 

日本では、情は相手を知るに従って「育っていくもの」だ。 しかし、韓国では、情は「人間として当然のように最初から備わっているもの」として扱われる。 愛情、義理、共感、記憶、執着 ── そうしたものが最初から一つに絡み合った、複合的な関係性としての情が前提にある。

 

その前提が共有されていない人間関係は、韓国人の目には、言葉を失うほど「薄情な世界」に映るのだろう。 日本人が「距離を保つこと」を礼儀と感じる場面で、韓国人は「なぜそこまで冷たくいられるのか」と戸惑う。 同じ「優しさ」でも、その立ち上がり方と距離感が、根本的に違うのだ。

 

だから、ひとたび恋愛をするとなったときの情愛は、日本人とは比較にならない潔さ(いさぎよさ)と深さを持っている。

人としてだけでなく、男と女としても、情感に溢れた人間にしか実現できない世界が見事に存在している。


情を知った日本人として、これからの願い

 

もちろん、韓国の家庭や職場の人間関係が、あの情念の濃いドラマのような世界ばかりだとは思わない。 しかし、あのドラマの中に描かれている感情の激しさには、韓国人なら誰もがどこかで共鳴する「情」の感覚が流れているのだと思う。 だからこそ、あれほど多くの作品が作られ、支持されているのだろう。

 

興味深いのは、その激しさが、ネガティブな方向だけでなく、ポジティブな方向にも同じように働くことだ。 情がこじれると、憎しみや執着として噴き出すが、情が良い方向に向かうと、笑いと明るさのエネルギーになる。 韓国のコメディ・ドラマには、その明るさが見事に表れている。 私は今では、情念の濃いドラマからは距離を置き、録画してまで観るのは、コメディ・ドラマばかりだ。

 

韓国人の持つ「情」の意味とその深さを知れば知るほど、私たち日本人が胸を打たれるものが、そこにはいくつもある。 遠慮と沈黙を美徳としてきた日本社会から見ると、彼らの情は、ときに騒がしく、暑苦しくさえ感じられる。 しかし、その暑苦しさの中にこそ、人と人が「ウリ」として結びつこうとする、強い意志がある。

 

下関からは、韓国・釜山とのあいだにカーフェリーが就航している。 海峡を挟んだこの隣人と、もっと自然に、もっと当たり前のようにお互いの「情」を理解しながら自由に交わせる日常が広がってほしい。

韓国人から学んだ「情」という感覚を胸に抱きながら、私はそう願っている。

 

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