人生ではさまざまな別れを経験するが、いつも心に残るのは人との別れだ。 恋人と関係性を絶つ「別離(breakup)」、この世から姿を消す「死別」、そして友人や家族と物理的距離が生まれる「離別(goodbye)」。
最初の二つ、「別離(breakup)」と「死別」は悲劇性が強く、格別に悲しく辛い。
最後の「離別(goodbye)」には深刻な感情は伴わず、悲劇性もない。 「別離(breakup)」のような意思を以って決断した結果や「死別」のような意思を超えた運命でもない。 むしろ「自分の幸せな物語の中で自然に生まれるさまざまな別れ」だ。 そこでの別れの体験は、いつも前向きにその人の人生のコマを進めてくれる。
それに対して「別離(breakup)」は覚悟をもった決断、「死別」は不可避で意思の関与のしようがない運命。 いずれも一度限りの「諦めの時間」であり、時が傷を癒してくれるだろう。
しかし意外と寂しいのは、なんでもなさそうな「離別(goodbye)」だ。 会えるかもしれないし、会えないかもしれない。 諦めのつく別れではなく、どちらもあり得る別れだからこそ、「また会いたい」という気持ちと「もしかしたら会えないかもしれない」という不安が交錯する。 そこに人は人生の物語を感じ、ロマンチックな気持ちが高まる。
私の話によく登場する『男はつらいよ』(寅さん)では、山田洋次監督がこの「離別(goodbye)」を実に巧みに描いている。 ひとつは、京成金町線・柴又駅のホームでの見送りシーンだ。 多くは寅さんがあてもない商売の旅に出る場面だが、寅さんが妹のさくらと一緒に尋ねて来たマドンナを見送る場合もある。 相手が電車に乗り、見送る方はホームに立って別れの声をかける。 相手が何か言おうとした瞬間に電車のドアが閉まり、二人の世界が分断される。 ガラス越しに口が動いているのだけがわかる。 その目を見て、口の動きを見ていると、返す言葉が聞こえてくるようだ。 電車が動き出し、身体が斜めになり、視界から消えていく。 見送る側からは、無情に去って行く電車の後ろ姿がだんだん小さくなる。 このわずかな時間に、なんと多くの感情が揺れ動くことか。
次に多いのは、地方の港町に住むマドンナを残して寅さんが船に乗って去るシーンだ。 船の別れは、本当に胸を引き裂くようなロマンに満ちている。 すぐに距離が離れず、少しずつ少しずつ遠ざかり、手を振る姿がお互いにいつまでも見えるからだ。 相手の姿が点になり、もうこちらの姿は見えないだろと思った瞬間、更に大きく振ってくれた手が見える。 「ここで終わり」という瞬間がない、フェードアウトする別れだ。 フェードアウトする頃には、船はもう1キロほど先を進んでいる。 これほど長く、糸を引くように消えていく別れは他にない。 いくら距離が離れても心はつながっていると強く感じる別れでもある。
寅さんの映画でも、もう港が見えなくなったと思ったら、港から少し離れた防波堤の先端にマドンナが走ってきていて、一生懸命に手をちぎれんばかりに振っているシーンがある。 なんともドラマチックな瞬間である。 相手の姿がかすんで見えなくなる頃、船が汽笛を鳴らし、立ち去ったことを知らせてくれる。
もうひとつお決まりのパターンは、寅さんが「行かないでお兄ちゃん!」と止める妹のさくらや、「行かないでおじさん!」とすがる甥の満男を振り切り、「あばよ」と言って雑踏の中に歩いて消えていくシーンだ。 歩いて立ち去る人の後ろ姿は、目の前でこちらを向いている時よりも多くのことを語っているように見える。 寂しさを感じさせる「看板」のようだ。 別れる人と視線が交差しない、唯一の別れでもある。
これは『男はつらいよ』とは関係ないが、もうひとつ心に残る別れがある。 それは空港での別れだ。 海外から来たお客さんを見送ることがあるが、最後の瞬間はいつも手荷物検査のゲートだ。 そこで手を振った瞬間に、相手との距離は数千キロの海の向こうになってしまう。 一瞬の別れだ。
私が人生で最も忘れられない「離別(goodbye)」は、また会うつもりで、それが最後となってしまった「死別」である。 おそらくこれほど悲しく、忘れられない離別はないだろう。 死はいつ誰に訪れるかわからない。 ましてや歳を重ねた今、こちらが相手に死別を残す可能性の方が高くなってきた。
海外勤務から一時帰国し、また赴任地に戻る息子を見送るときは、最寄りの駅まで見送り、最後に「また会えたらな!」と言って固い握手をして見送ることにしている。