世の中には形式を重んじる世界と、自由なスタイルを追い求める世界がある。 絵画や音楽など、いわゆる芸術の領域では、その違いがはっきりと表れる。 私は特に音楽が好きだが、好きなタイプは明確に分かれている。
私が好きなのはクラシック音楽であり、基本的には「形式美」の世界だ。 私は日常生活でも、あらゆる場面で自分が決めたルーティンを大切にしている。 言い換えれば、自分なりの形式に則った「儀式」である。 こういう場面ではこうする、と決めていることがいくつもある。 何かを始めるときは、まず「形」から入る。 なぜそうするのか、明確な理由を意識しているわけではないが、その方が魂の居心地が良いのだ。 形式の中でこそ自分の魂が正しい位置に収まる。
身の周りが多少散らかっていてもあまり気にならないが、自分なりに決めた配置や順序が守られていないと落ち着かない。 自分が納得する「形式美」があり、それが崩れていると居心地が悪く、何をしても結果に悪い影響を及ぼしてしまう。
この形式美は自分とは直接関係ない物亊に対しても求めることがある。 例えば神社の参道で必ずこの灯籠のあの灯籠の間を歩くとか、電車の駅で往きと帰りに通る改札口をなんとなく決めている、とかいった類である。
おそらく私は、自分が従うべき独自のスタイルを持っていて、「それに従わないと、うまくいくこともうまくいかなくなる」と漠然と感じているのだと思う。 これは私の「こだわり」とか「心の癖」のようなものだ。
世の中は常に常識に挑戦する人たちがいて、驚くような斬新なスタイルで既存の常識を意図的に破壊することがある。 そうした動きは、時として時代の流れの中で人間の可能性や感受性を広げていく、わくわくする波動だと思う。 しかし、そうしてほしくないと思う領域もある。
例えば私の好きなクラシック音楽の世界で違和感を覚えたことがある。 昨年のクラシック・コンサートで、万来の拍手の中に登場した指揮者が、指揮台に片足をかけるのと同時に指揮棒を振り下ろすという、前代未聞の「暴挙」に私は度肝を抜かれた。 形式の世界で心を整えようとしていた矢先に、その環境を頭から破壊されたのである。
さらにその指揮者は最初から最後まで指揮台の上で大袈裟なダンスを踊り続けた。 私にはオーケストラの演奏を聴きに来たのではなく、指揮者のダンスを見に来たとしか思えなかった。 その視覚的な破壊的行動によって、聴覚から心へと伝わるはずの神経は完全に麻痺し、オーケストラの演奏は耳に入ってこなかった。 単なる「受け狙い」のオーバー・パフォーマンスにしか見えず、心を大きくかき乱されて、不快な気持ちで会場を後にした。
また、最近人気のクラシック音楽演奏グループにも、演奏技量は高く人気を博しているものの、風貌やスタイルがクラシック音楽のコンサートとは思えないほど「型破り」を売りにしているものがある。 少なくとも視覚的には暴挙にしか感じられない。
あるピアニストは、ステージを歩いてきてピアノに近づき椅子に座るのと同じ瞬間に「バーン!」と鍵盤を叩き始めた。 美しい演奏を聴きたいと胸を開いていた期は、暴力のように吹き飛ばされた。
「前衛芸術」は伝統を破壊することから始まるのだろうが、私はそういった世界には馴染めない。 まず伝統と言う重みと深みのある形式が好きだ。 茶道・華道・柔道・剣道・相撲道も深みのある形式ありきの世界である。
もっとも、そういった簡単には成就できない形式の世界は好きだが、結婚式のような「それがためにする」深みのない儀式で形式に縛られるのは好きではない。 だから自分の葬式も好まない。 よくある「お別れの会」でいい。 基本的に自分自身が決めた形式に則った儀式を大切にしている。
おそらく人が決めた形にはめられるのが本能的に嫌いなのだと思う。 儀式は主役の人間の内面でつくられるものだ。 形は自分で作りたい。 そういう部分では、前衛音楽家たちと気持ちは同じなのだろう。 それでこそ、自分が存在する意味を表現できるからだ。
彼らと較べたら比較にならないほど小さな主張ではあるが、例えば私がここで綴っているエッセイは、万人受けするような内容ではなく、多くの読者の関心を集めてはいない。 他のスキやコメントに溢れる記事とはまるで比較にならない。 私はそれを知っていて、あえて自分のスタイルを貫いている。
形式を大切にするというのは形式そのものに価値があるのではなく、その形式に映る自分の姿に意味があるのだ。