「愛し残した」という後悔と、「償いきれなかった」という後悔

 

私は長いあいだ、死について深く考えることを避けて来た。 考えても答えが出ないことは、誰もが知るっているからだ。 しかし今、私は死について、これまで以上に真剣になって考え始めている。

 

世界中の誰もが一度ならず何度も自問したであろう、最もありふれた疑問が「自分が死んだらどうなるのか?」である。 だが、多くの場合、「明確な答えは出ないので、そのうちに考える事すらやめてしまう、けれど、ふと死に触れる機会があると、その疑問に立ち返る。」というのがよくある話だろう。

 

私もそうした経験を何度も繰り返しながら生きてきた。 しかし「人生七十古来稀なり」と言われた古希を過ぎ、数年が経った今、統計的にはいつ死んでもおかしくない領域に入っている。 実際、身の周りの友人や知人が世を去っていくのを見ると、いつ自分の番が回ってくるかわからない。 むしろ「回ってこない」と安穏に考えているほうがおかしいのだ。

 

最近、「自分は既に死んでしまったのではないだろうか?」と考えることがある。 しかも、かなり真剣に。 つまり、自分はすでに死んでいて、「自分の周りの人たちは、かつて自分が生きていた世界で、死んだ自分を見て涙している」という状況だ。 そして「いま自分が見ている自分の周りの人たちは、自分とともに新しい世界にいる。」という考えである。 例えば、妻は今日も私と夫婦漫才のように笑って過ごしているが、実は別の世界で私の遺影に向かって泣き崩れているかもしれないという想定だ。

 

自分が目の前で見ているものが虚像のように感じて、「実は私は取り返しのつかない過去を残してしまった」のではないかという気持ちに襲われ、頭の中が混乱状態になる。

 

人という生き物は、頭ではまったく理解も認識もできないような仕組みの中を生かされていて、抵抗もできないままただ泳がされているのではないかと考えると、気後れするような恐怖すら感じてしまう。

 

死生観は昔から宗教や哲学と深く関わり、人がどう生きるかを考える際の基盤として働いてきた。 死後を考えることで、現世の道しるべとするのである。 だが、私がいまになって死に関心を持つようになったのは、まったく異なる動機からだ。 明日をよりよく生きるためではなく、明日どうなるのかを知りたいからだ。

 

知ったところでどうなるわけでもない。 ただ知って、「やり残しがないように最終点検をしたい」のと、「腹をくくりたい」からだ。 それは、愛する人に対して「愛し残した」という後悔と、「償いきれなかった」という後悔を残さないためである。

 

未来があるうちは、後ろを向く「後悔」よりも、明日を変えられる「反省」が大切だった。 しかし、明日がない死の前には、後悔しか残らない。

 

「もっと優しくできたのではないか」

「もっと言葉にできたのではないか」

「もっと一緒に笑えたのではないか」

こうした「愛し残した後悔」は、いま愛することでしか埋められない。 やり残しがないように。 そして「償い切れない後悔」を残さないためには、とにかく「いま目の前の人を大切にすること」を日々積み重ねるしかない。

 

いくら愛しても愛しすぎることはない。 そしていくら償っても償い過ぎることはない。 どちらのためにも、一日でも多くの時間が欲しい。 時間が限られているのなら、最後の力を振り絞って、思いっきり今の気持ちを叫びたい。

 

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