映画やドラマ、ドキュメンタリー番組でも、一昔前の作品になると、登場する芸能人の多くがすでに他界していることに気づく。 あまりよく知らない人なら気にならないが、生前の記憶がたくさん残っている有名人の場合は、亡くなったと言う事実を一瞬忘れ、心がかき乱されることがある。
『にっぽん縦断こころ旅』の火野正平さんは、亡くなる直前の姿でもあるため、なおさら「今は亡き人だ」という実感が湧きにくい。 自転車のペダルを漕ぎながら、はぁはぁと吐く息の音を聞くと、今度は亡くなったときの苦しそうな姿を勝手に連想してしまい、悼む気持ちが胸の奥から込み上げてくる。
また、私の大好きな『男はつらいよ』に至っては、寅さん役の渥美清さんをはじめ、多くの役者がすでにこの世を去っている。 いくら「もういないのだ」と自分に言い聞かせても、「では、今目の前にいるこの人は誰なのか」と、頭の中の混乱はおさまらない。 しかし亡くなった事実を改めて受け止めると、今度は「こんな素晴らしい映画を残してくれた」という感謝の気持ちが静かに込み上げてくる。
いずれにしても、私は世を去った人の動画を見るのが得意ではない。 祖父母や両親、姉についても同じだ。 映像は、仏壇の一枚の写真だけで十分だ。 その一枚にすべての記憶が沁み込んでいる。 「亡くなった」と言うことは、「想い出の世界の人になった」ということだ。 一枚の写真を見ていると、生前の想い出が次々と浮かんでくる。 その写真の笑顔には、その人の人柄がすべて宿っていて、その瞳が私との数えきれない想い出を語ってくれる。
写真は「想い出の世界」を守ってくれる。 こちらの心の歩調に合わせてくれる。 だから安心して向き合える。
写真の中の人は、「こちら側に視線を向けている」という一点だけで、圧倒的な存在感を持っている。 その視線は、私の今の心、嘘、弱さのすべてを見通しているように感じられる。 写真の中の一瞬の姿が永遠に私を見つめ続けるから、ごまかしは効かない。
その静けさを一挙に揺るがすのが「動画」だ。 生前のリアルな姿は、私の想い出を無視して、ある場面を強制的に再現し、私を想い出の世界に留めてくれない。 想い出の余白を奪い、記憶の領域踏み込んできて、映し出されたシーンを新たな想い出として押し付けてくる。
映画などの役者たちは、あくまでも「見せるための動画」であり、観る者は彼らが演じた役を観ているだけだ。 だから、役者本人の素の姿に触れている訳ではない。 しかし、親兄弟・友人の動画となるとそうはいかない。
動画は、ある瞬間を強制的に見せる。こちらの想い出の余白を奪い、「この人はこうだった」と決めつけてしまう力がある。 まるで目の前に生きているその人がいるかのように見えるため、「生きている姿」と「もういない事実」が衝突する。 その衝突こそが、見ている者の心をかき乱すのだ。
動画は「生きていた事実」を再現してくれるが、写真は、「想い出」を守ってくれる。
想い出は、静かにそばにいてくれるときがいちばん美しい。 動かない一枚の写真が、私の心の中でいつも息づいている。 その息づかいが、亡き人と私をそっとつないでくれている。