振り返ると書けない事ばかり

私のここでのエッセイの基本コンセプトは「過ちだらけの人生を振り返って」だ。 既に145話ほど公開したが、私としてはずっと続けて行きたいと思っている。 しかし最近は戸惑う事が増えた。 人生を振り返ったはいいが、あまりにも「書けない事」が多い。 別に何か犯罪を犯したとか悪い事をした訳ではないのだが、人間として余りにも恥ずかしい話が多いのだ。

 

流行りのSNSでは「書けなかった真実」なんて言うのは定番の「バズり」記事のタイトルだろう。 私は自分の過去を基本的に大いに反省しているので、多少の恥をさらすのは覚悟しているのだが、物事には程度って言う物がある。 第一、話を読んだ方から呆れられて、もう二度とこの人の作品は読みたくないと思われたら悲し過ぎる。 かと言って、小説ではあるまいし都合のいいように、事実を改変して面白おかしく話を作って書いては、新たに過ちを増やすだけだ。 

 

そもそも私は何故過ちを振り返り、それで何をしようとしているのだろうか。 クリスチャンがイエス・キリストの前で懺悔を行うように、自ら犯した過ちの「告白」を行って赦しを得て楽になろうとしているのだろうか。

 

私の場合はそれはあり得ない。 そもそも私はただひたすら謝罪をするだけで、赦しを乞うつもりは全くないからだ。 それを第三者の「主」に乞うとは、とても信心深いとは言えない私の生き方スタイルからして益々あり得ない話だ。 第一、私の過ちは誰か他人に対して犯した物だけではない。 人生途上での生き方の選択間違いも沢山あった。

 

私には過去を振り返って正直に自らの過ちを炙り出して認める事で、「過ちがあった分だけ過分に見せて来た自分の生きざまを下方修正して置きたい」と言う気持ちがあるようだ。 過ちと言う事実は隠さないまま認め、その事実の前で頭(こうべ)を垂れている自分の姿を「絵にして」残したいと言う気持ちが強い。 自らを晒し者(さらしもの)にして、自分に対して自分が決着をつけたいのではないかと思う。

 

また、私にとって、「過ちをたくさん犯して来た人間」ならではの経験や視点を伝える事で、もし私の人生が少しでも無駄にならず意義のある物になれば救われると言う、切なる思いもある。

 

その根源にあるのは、人間の持って生まれた性癖だ。 生まれながらに持って来た身体的特徴は、気に入らないからと言って幾ら引っ張っても叩いても変わらない。 それはその人の特徴であり個性で、良い悪いと評価する物ではない。 それと同じように、人間には持って生まれた性癖と言う物がある。

 

私は個性がはっきりしている人間なので、またもし生まれ変わる事があっても来世には同じ性癖を持って生まれる様な気がしており、いくら反省しても来世でまた同じような過ちを犯すに違いなく、ならば今のうちにせめて「少しでも参考になるかもしれない私の足跡」を世に残そうとしているのではないかと思っている。

 

おそらく今の私の意識は、文学・哲学・思想・宗教と言った、人生で私が一番遠ざけて来た世界にあるような気がする。 自省や自己査察、自分を見つめなおす世界に自分がいる。

 

おそらく好き勝手に人生を生きた報いはこのような晩年の自省の日々なのであろう。 真面目に誠実に着実に生きて来た人間は、全く異なる気持ちを抱いて暮らしているに違いないと思う。 どんな穏やかな世界にいるのだろう。

 

そういう人は、人生を振り返ってここで書けない事は何も無いのに間違いない。 しかしそうなると今度は書く事がなくなってしまうかも知れない。

 

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