後進に道を譲る勇気と懐の深さ

政界や財界の上層には、80歳を超えてなお権力の中心に座り続ける人が少なくない。

その姿勢に敬意を抱く一方で、自分自身が加齢による「退化」を実感するたびに、果たしてそれは社会にとって本当に望ましい姿なのかという疑問が拭えない。


避けられない加齢による衰え

 

年齢を重ねて得た経験には確かな重みがある。

しかし、人間が加齢によって失う能力もまた、個人差こそあれ確実に存在する。 どこかで線を引かなければ、積み上げた経験の価値よりも、判断力や身体能力の衰えによる弊害のほうが目立ち始める。

 

かつては「50歳定年」という考え方すらあったが、今や60歳定年は当たり前となり、雇用形態を変えて65歳まで働くことも珍しくない。 世界的に見ても、公的年金の満額支給年齢を基準とすれば、65〜67歳前後が一区切りとされている。

 

私自身、60代では大きな変化を感じなかったが、古希を迎える頃には、身体能力の面で明らかな節目を感じた。 これは、おそらく私にだけ起きたことではなく、人間の構造として避けがたい変化なのだろう。

 

老年学でも、70代は「健康寿命」を維持するための重要なターニングポイントとされる。 筋力、脳の働き、五感などが確実に低下していく。

そしてそれは肉体だけではない。

 

蓄積した知識や経験が成熟を続ける一方で、残された時間を意識するため、「自分が心地よいものだけを選びたい」という傾向が強まる。

人間としての能力のバランスが崩れ始めるのは、自然の理である。

 

技術者肌で、何でも納得が行くまで調べて、自分の力で答えを導いて生きてきた私も、今はその論理や手続きを追う根気が続かず、「おまかせ」とか「自動」を選んでシステム任せを選ぶことが多くなってしまった。


ヒエラルキーが拘束するトップの座

 

それにもかかわらず、社会には「ヒエラルキーに抗わない」空気が根強い。

権力の頂点に立つ者は、周囲の忖度によって自らの衰えを指摘されることがなく、本人もまた「自分がいなければ回らない」という錯覚に陥りやすい。

 

権力の座とは、いったん腰を下ろすと立ち上がりにくくなる「深い椅子」のようなものだ。 周囲はその椅子を揺らさないように気を遣い、本人もまた、そこから離れる勇気を失っていく。

 

こうして組織は「降りる自由」を失い、高齢者が座り続ける構造が固定化される。

 

研究者や芸術家、自営業者など、一個人として活動する世界では年齢は大きな問題にならない。

しかし、多くの人を統率する立場にある者には、同じ論理を適用できない。 そこには社会全体の健全性がかかっている。

 

ヒエラルキーは有無を言わせない圧力構造だ。

組織は自由闊達にものを言えなくなり、高齢者が権力の座に居続けることが「自然現象」のように見えてしまう。

 

そして「経験の重み」より「判断の鈍り」が組織に影響し始めても、誰も止められなくなる。

ここに、最大のリスクが潜んでいる。


奪われる「後進が育つ場」

 

「後進に道を譲る」という言葉がある。

譲るのは後進ではなく、当事者である。 後進が「奪う」ものではない。

 

にもかかわらず、かなりの高齢になってもなお「自分が花を咲かせる番だ」と思い続ける人々がいる。

その姿には、過去の栄光にすがり、それを手放す勇気を持てない弱さが透けて見える。

 

その結果、後進が育たないだけでなく、育つ場所そのものが奪われていく。

後進の成長が阻害されれば、組織全体は老化するしかない。


静かに席を譲るという選択

 

社会を動かす中心にいる人々は、自分の子どもたちの世代に達したら、そこからは謙虚に生きるべきだ。

そして、自分のすぐ後を歩んできた世代にリーダーの座を譲ることを、成熟した選択として受け入れるべきだ。

 

それこそが、後進に道を開き、社会を健全に保つための「勇気」と「優しさ」である。

 

しかし、国内外を問わず、世界を見渡す限り、その姿勢はなかなか見えてこない。 政界も財界も、欲望の構造に深く絡め取られている。

 

人生の後半には、前に出ることよりも、後ろへ一歩下がるという「成熟さ」が求められている。

その静かな後退こそが、次の世代の前進を支える。

 

 


 

※ ヒエラルキーについて綴った過去の私のエッセイ

 

ヒエラルキーの呪縛を超え、矜持を貫く

 

 

 

コメントする