晩酌という儀式

晩酌は私にとって一日の終わりを静かに解き放つひとときだ。

どうやら私は、生活の中にある小さな儀式が好きらしい。 そう意識してきたわけではないが、ふり返って見ると、生活習慣を超えて行動の細部にまで自分なりの「こだわり」が染み込んでいるのが分かる。 

 

朝起きてから全ての行動には、自分で決めたスタイルや手順がある。

道路を歩くときでさえ、交差点の角に立っている電信柱の外側を通るとか、郵便局のポストの前は必ず道路の反対側を歩くとか、特に意味はないのだが、決めたルールがある。 線路の向こう側にある神社に対しては、線路越しに鳥居の正面にぴたりと立ち止まり、心の中で「ありがとうございます」と三回唱える。

生活のあらゆる場面で、自分が決めた小さな「儀式」を大切にしている。

 

そんなひとつが、夕飯前の晩酌だ。

私は晩酌を、とても意味のある習慣であり、大切な時間だと思っている。 その日一日、「色々あったが、とにかくこれで今日は終わるのだ」と静かに受け止め、自分にそっと蓋をしてねぎらい、一旦締めくくるための場である。

 

明日にはまた新しい一日が待っている。 しかし今は、今日という一日をすべて受け止めて休む時間だ。 一日をリセットするのだ。

朝になって目覚めれば、コーヒーで覚醒し、新たな一日への挑戦が始まる。 晩と朝、そのコントラストが毎日の生活に確かなリズムを与えてくれる。

 

ところで、この晩酌という習慣は、海外ではあまり見かけない。 スペインでは、バル(居酒屋)で朝からワインを飲んでいる人をよく見たが、それはまるでモーニング・コーヒーを飲むような感覚で、一杯ひっかけるだけだ。

居酒屋でも友人と集まって立ったままワインやビールを飲む光景はよく見かけたが、パーティ以外で家で腰を据えて飲む姿は見たことがなかった。

 

食事の際には昼夜を問わず、テーブルの上に赤ワインが入った陶器のサーバーが置かれ、普通に飲む。

だから留学を終えて日本に帰るとき、私が抱いていた印象は、「スペイン人は酒飲みで、一日中ワインやビールを飲んでいて、半分酔っぱらって暮らしている」というものだった。

 

数年後に、留学先の大学の教授夫妻が日本を訪れた。 教授同志の結婚で、二人とも私と同年代で親しかった。

夜しか会う時間がなかったので、私は彼らを銀座や有楽町に連れ出して飲み食いし、最後に新橋の行きつけのカラオケスナックに案内し、『AMAPOLA』などスペインの歌をスペイン語で一緒に歌った。

 

彼らは酔って上機嫌だったが、そのカラオケスナックで予想もしなかったことを言った。

「日本人はアル中だ。酒の飲み方を知らない!」

スペイン人は悪気なく乱暴な物言いをすることがあるので、冗談として受け止めてよいのだが、意外な言葉だった。

 

「朝から晩までだらだらとアルコールを飲み続けているスペイン人にだけは言われたくない」と思った。

 

しかし、よくよく考えて見ると、彼らの言葉にも一理あった。

深酒をして大騒ぎしたり、くだを巻いたりするスペイン人を見た記憶はほとんどない。

日本は赤提灯街を千鳥足でふらつき、帰宅の電車内で酔って寝こけていても、どこか「無礼講」として許されている。

 

さらに大きな違いに気づいた。

家で一人で酒を飲む、それも毎晩飲むという習慣が、彼らにはないのだ。

スペインに限らず、他のヨーロッパ諸国やアメリカと比べても、日本の飲酒習慣は独特である。

晩酌とは、日本独特の習慣なのだ。

 

私は今では、晩酌は日本が誇るべき文化だと思っている。

一日を終えるための大切な儀式なのだ。

西洋には、こうした精神性が乏しい。

 

夜空に浮かぶ月を愛で、虫の音に耳を澄ませ、美味しい酒を味わいながら今日一日を終え、明日へとつながる夜を安らかに迎える。

 

それは日本文化特有の精神性に支えられた習慣だと言ったら、酒を飲まない日本人から「酒飲みの言い訳」と言われてしまうのだろうか。

 

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