人は何に心を奪われるのか

芸術の世界にあるものは、観る者の嗜好によってその評価が大きく左右される。 そしてよく観察すると、そもそもその対象に対する「着目点」そのものが、人によってまったく異なっていることに気づく。

 

例えば映画であれば、

「登場する俳優そのもの」に着目する人もいれば、監督の思想や世界観を大切にする人もいる。

また人物ではなく、語られているスト-リーに着目する人もいる。

 

クラシック音楽で言えば、

演奏するオーケストラで選ぶ人もいれば、指揮者で選ぶ人もいる。

一方で、演奏される曲目そのもので選ぶ人もいる。

 

歌謡曲で言えば、

歌っている歌手そのものに惹かれて着目する人がいる一方で、音楽が好きな人は、曲(メロディ)に、詩が好きな人は歌詞に着目する。

 

もともと嗜好の世界なので、評価を比較し合ったり、好き嫌いや良し悪しを議論してもまったく意味がない。 ただ着目点が人ごとに異なるという事実と、その結果として評価がはっきりと分かれるという事実は、実に興味深い。

 

振り返ると、若い頃の私は、自分が好きなものを他人がどう評価しているかなどまったく気にしなかった。 自分がどう感じ、それに対しどう行動をするかがすべてであり、他人がどう思うかはどうでもよかったからだ。

 

だから、ある物についての評価が異なると、単純に「その人の感性は変わっている」と片づけていたように思う。

しかし、自分が他人に優しくなり、その人の気持ちを思いやれるようになって初めて、「その人と自分は着目している点が違うのだ」ということに気がついた。

それは自分が歳を重ね、自分の人生を素直に振り返ることができるようになってからのことだった。

 

ところで、これは芸術に限った話ではない。

私は男なので、女性を好きになるときの着目点については、折に触れて考えながら生きてきた。 人間が対象となる場合の着目点は実に多様で、とてもひとことで語れるものではない。

顔、プロポーション、脚の綺麗さ、グラマーさと言った容姿に着目する人もいれば、優しさ、母性、知性などの性格や人間性に惹かれる人もいる。

 

私が圧倒的に惹かれるのは「笑顔」だ。

それに自分が気づいたのは、人生経験を積み、ときおり走馬灯のように脳裏に現れる過去の映像をたどるようになってからだった。

 

ドラマや映画でも、登場人物が明るい笑顔を見せてくれると、私は心を奪われる。 どんな素敵な俳優でも、その役柄で笑顔を見せてくれないとなると、心は遠ざかる。 だから芸能人でも、親しい友人の間でするNHKの女子アナ批評談義でも、決め手は「笑顔」だ。

 

大柄で体格はがっちりしている男だが、意外にも内面は寂しがり屋なのかもしれない。 笑顔を見るだけで幸せに包まれる気がする。

私の大好きな『男はつらいよ』の登場人物は、いつも笑顔に溢れている。

「温かい」のである。

笑顔を見ると、優しかった母を思い出すのかもしれない。

 

今から五十二年前、近くの友人の家に遊びに行き、外から声をかけたときのことだ。

二階の部屋の窓から私に手を振る彼の隣に、満面の笑顔をたたえながら一緒に手を振る女性がいた。

彼の従妹だった。

 

初めて出会ったその女性の笑顔は、ひと目見て「天真爛漫で純真無垢な天使の微笑み」のようだった。

何も知らない私に向けられたその笑顔は、あまりにも衝撃的だった。

私は一瞬にして堕ちた。

今から思うと、あれは目の錯覚だったかもしれない。

しかし、その一瞬の出来事が、のちの人生を決めることになった。

その女性が、私の妻となった。

 

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