書くと言う事

私は若い頃から「書く」事が好きだし、書く時は入魂して熱中して書く。

ただし日記は書いた事はないし、小説は読む根気すらない位なので書ける訳もないし、エッセイはこの歳になって初めて細々と書く様になっただけだ。

こう言ったいわゆる「書き物」にはあまり縁がないが、私は書く事自体はとても大切にしていて、今までの人生の中でも大いに活用して来た。 私の場合それは以下の2つがある。

 

 

1.客観的な自己分析

私は「物事をどう理解して、どう捉えて、どう自分の心の中に収めて行ったら良いのか」と言った問題にブチ当たると、明けても暮れても書き続け、まとめ直し、推敲を延々と続けてしまう。 とにかく物事を客観的かつ正確に理解する為に頭を整理する事を目指すのだ。 文章だけでなく時には図や表まで加え、まるで解説書を執筆でもしているかの様に精緻に分析文書を完成させる。

 

体裁も大事にしていて徹底的に拘る。 汚く適当に書いたものは自分の物だとしても読む気がしないからだ。 もういい、と思えるところまで出来ても、時間や日を変えて見直すと、新たな疑問点や修正点が浮かぶ。 自分で考えている事のロジックやまとめた結果に納得できない。 何度も何度もしつこく見直して納得できるまで書き直し続ける。 毎日文書に向かい合っていても、時には1週間以上かかる時もある。 そうやっている内に、やっと何とか納得できるものにたどり着き、自分の頭の中で難問が解決する。 書かなければ絶対にできない事だ。

 

 

2.頭のリセット

これはパソコンのリセットのようにその場の状態を初期状態に戻すと言う意味ではなく、もっと長い期間ある目標に向かって熱中して生きて来た後、それを終了して、新たな目標に向かって挑戦を開始する為に、頭の中の記憶や思考回路をそれまでの体験から切り離して空の状態に戻すリセットだ。

 

実は、先日帰省した息子が私の部屋に入って、本棚に並んだ沢山のファイルとか壁に貼り付けた沢山の資料を熱心に見入ってえらく感心していた。 私が幾つかファイルを取り出して書いてある中身を説明しながら見せたら、腰を抜かしていた。 「な、なんで仕事でもないのに、こんな精緻で完璧な資料を作ったの?」とかなり驚いていた様だった。 私にとっては少しも大変な事ではなく、極く当たり前に繰り返して来た日常の事だったのでこちらが驚いてしまった。

 

私のこの「書いてまとめる」性癖は小学生時代からのようで、小5で始めた天体観測の記録や、自分で工夫してその辺に転がっていた木材で製作した望遠鏡の支持装置の仕組みとかを記したファイルが残っている。 天体観測の記録には稚拙で幼稚ながらスケッチと何が見えたかの説明、考察まで書き込んである。

 

色々残されている資料やファイルのほんの一部ではあるが幾つか見たところで、息子に質問された。 「こんなに沢山、また読み直す事あるの?」 私は即座に「ないよ」と答えた。 棚にずらりと並んだファイル、製作後開いた記憶はほとんどない。 それは後日見直す為に保存するのが目的で書いた物ではないからだと思う。 私が物を書くのは、おそらく熱中して来た事を整理して「記憶の引き出し」にしまう為だと思う。 しまって置けば、取り敢えず忘れてしまっても良く、忘れてしまえば空になった頭で次の事に挑戦し集中できるからだ。 一生懸命熱中して来た事だから消去は絶対したくない、だけど新たな挑戦には邪魔になるので一時預かりに預けるのだ。 これが自分で自分を分析して一番ストンと落ちる説明だ。

 

 

ところで、今はパソコンが文章作成に絶大な威力を発揮する。 私が社会人になったばかりの頃はパソコンは全く普及しておらず、すべて手書きの時代だった。 今はキーボードに慣れている人だったら文章の書き起こしはさらさらと出来るし、なによりも訂正が簡単だ。

 

簡単な単語の修正以上に威力を発揮するのが、文章の選択範囲の切り貼りだ。 この機能のおかげで、画面上で文章構成を変えるなどの試行錯誤が何度でも簡単にできるようになった。 思った事をとりあえず文章にして並べてみてからスタートしても良い。 脳みその中身を書き出して並べてから組み立て作業に入れば良いのだ。 これは文章書きに革命を起こしたと思う。 今やパソコンなしの文章作成など全く考えられない。

 

パソコンのおかげで毎日書く事に没頭できている。 新たな「書く」世界としてなんとか始めたエッセイはいつまで何処まで続けられるのか、自分への挑戦をしている。 若い頃から常に何かに挑戦を続けて来た私であるが、まさかこの歳で、書く事で新たな挑戦を始めるとは思ってもみなかった。 この素晴らしい環境を提供してくれている「note」には心から感謝している。

 

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