オーディオの世界では、今や背の高いタワー型の箱に小さなスピーカーを複数個取り付けて、立派な重低音と拡がる音場空間を実現するシステムが主流だ。どこに行っても、かつて一世を風靡した巨大なフロアー型スピーカーにお目にかかる亊はほとんど無くなってしまった。
若い頃、かなり無理をしてローンを組んでまで購入した、当時の羨望の的であった大きなJBL製のステレオスピーカーも、今ではただの陳列品となってしまった。
私は、後生大事にそのJBL製のステレオスピーカーをリビングルームの正面に据え、大切に守ってきた。以前は大音量でシンフォニーを迫力いっぱいに鳴らし、一時期はカラオケで酔いしれる音響装置にもなってくれた。マッキントッシュのパワー・アンプと共に、とにかく自慢のオーディオ・システムが我が家にあった。それが、ここ十数年は仕事の変化もあり、電源すら入れなくなる日々が続いた。
それでも「我が家には宝物がある」という満足感と安心感があり、ちょっぴり
贅沢への罪悪感すらあった。
それがまったく虚しい笑い話になっていることについ最近まで気がつかなかった。いつの間にか「化石」になっていたのである。
かつて技術の最先端を闊歩した製品も、最後は陳腐化して第一線の現場からは姿を消す。
しかし、「物」として残せる限り、その価値は見直されることもあり得る。陳列して楽しむ骨董品として永遠の存在へと進む道が残されている。
アナログレコードや、回転するレコードに針をそっと下ろすレコードプレイヤーなどもそのいい例だ。
そういったものは、いつまでもノスタルジアを大切にする愛好家の下で骨董価値を保ち続ける。
それに対して、残ることができず、いずれ消え去ってしまうものが人の「心」だ。著名な芸術家など世に名を残すことができた人は、その「心」を後世の人々にずっと語り継がれるだろう。
しかし、ほとんどの人間は家族・親戚・友人・知人たちがこの世から旅立ってしまえば、残るものはほとんどなくなってしまい、最後は永遠に消え去ってしまう。
どれだけ人や物に思いを寄せ、深く愛し、感動的な物語を描いた一生を送っても、いずれ消え去り「なかったことになってしまう」運命なのだ。
私は世の中の根源は物質で、心は物質の働きから生じたと考える「唯物論」が世界の構造を表していると思っている。
物質は、陳腐化しても形が残るし、価値は変動するが存在は持続する。
それに対して心は、価値は高いが存在が持続しないし、記憶の主体が消えると痕跡も消える。
そして人生は、どれほど濃密でも、物質的基盤が消えれば「なかったこと」になってしまうのだ。
ならば消えゆく心の価値とは、いったい何なのだろうか。
物質は残る。 心は消える。 では、消える心に意味はあるのか。
唯物論はこの問いに答えを出してくれない。