久しぶりにSNSでつながった学生時代の友人が、挨拶の冒頭でいきなり「両膝変形膝関節症、脊柱管狭窄症、椎間板ヘルニアと診断されています。」と病名を並べた。
五十年以上の空白を埋める最初の言葉がそれだったことに、彼の胸に積もった無念の深さが透けて見えた。古希を過ぎれば、誰もが何かしらの不具合を抱えるものだが、その列挙の重さは、歳月が一気に押し寄せてくるような衝撃だった。
その投稿を読んだもう一人の友人が、さらに身をすくませるような書き込みを続けた。
かつて膝の変形で長く松葉杖の生活を余儀なくされ、特殊な装具をつけていたこと。
また、右目の病をきっかけに視野の中心が大きく歪み、実際に名医に施術して貰った眼球への外科手術の詳細は読むだけで気が遠くなるような内容だった。
その一つひとつが、他人事ではない痛みとして胸に迫ってきた。
老いの風景が変わるとき
気づけば、周囲の景色そのものが変わっていた。
妻の友人のご主人たちは、みな私より少し年上だが、複数回の緊急手術を経験した人が珍しくない。
かつての同僚や知人も、還暦を過ぎたあたりから次々と旅立っていった。
古くから「上を見ればきりがない、下を見てもきりがない」と言うが、健康もまさにその通りだ。
今は元気で働いている人も、毎日どこかで不可避の事故が起き、誰かが突然この世を去っている。
そうした現実の中で不平や不安を口にすることは、いま生かされている事実を見落としているに等しい。
ただ大過なく生きているだけで、すでにありがたいことなのだ。
その感謝を忘れれば、病や不運に向き合っている人々に対して申し訳ない。
感謝が心を澄ませる
神様に向かって「どうかお願いします」と祈る姿はよく見聞きするが、もともと神道の祈りは願いよりも感謝を重んじる。
何かを求める前に、まず「今日も生かされていることへの感謝」を捧げる。
その順序が大切なのだ。
不足を抱えたまま祈ると、願いは執着へと変わり、心が濁る。
神道でいう「穢れ」とは、まさにこの心の曇りを指す。
だからこそ、まず感謝によって心を澄ませ、神と自然に向き合う準備を整える。
感謝は、心を澄ませ、いまある命をそのまま受け取る姿勢を育てる。 その姿勢は宗教の枠を超え、人が成熟へと歩む過程で自然に形づくられる精神のあり方なのだ。
日々の出発点としての感謝
毎朝、神棚や空に向かって姿勢を正し、二拝二拍手一拝を行う。
そのとき「今日も生かされておりますことに感謝します」と静かに唱える。
その一言が、心の底に静かな透明を取り戻し、日々の出発点となる。
感謝は、今の自分を肯定することでもある。
多少の不具合や不満があっても、それでも今の自分が存在できていることに感謝を新たにすることは、明日の一日をそのまま受け入れることにつながる。
その積み重ねをするかしないかが、やがて結果となって現れてくるように思う。
それは歳を重ねた今だからこそ、実感を伴って心に湧き上がってくる気持ちなのだ。