因果の網の目に生かされて

人生の成否を左右する局面で、私は何度も、間違った判断を危機一髪で回避してきた。

そのたびに「ぎりぎり間に合って良かった」と胸をなでおろすのだが、こうした好都合が何度も重なると、「偶然」という言葉の許容量を超えてしまう。 私の中で、もはや単なる偶然として片づけられない何かが働いているのではないか、という感覚が芽生えてくるのだ。

 

これは私だけに起きている特異な現象なのだろうか。 それとも、口に出さずとも誰もが経験していることなのだろうか。 おそらく、ある人との結びつきに「特別な意味」を感じる瞬間は、多くの人が人生のどこかで体験しているはずだ。


こうした偶然性や必然性の正体について、最近私が関心を寄せている仏教の教えが、明快な答えを与えてくれた。

「縁起(えんぎ)」である。

 

現代では「縁起が良い」などと運担ぎの意味で使われることが多いが、本来の哲学的意味はその文字が示す通り「因縁生起」 ―― あらゆる出来事は、無数の因(直接的な原因)と縁(間接的な条件)が重なり合って生じるという理(ことわり)だ。

 

因は自らが蒔いた種であり、縁はその種が芽を出すための雨や土壌のようなものだ。

すべては過去の行為、選択、そして環境がもたらした結果であり、後から振り返れば「そうなるしかなかった」と得心がいく。

日本の文化には、この目に見えない「つながり」を敏感に察知する感性が古くから根付いている。

 

英語には「縁」を一言で表す単語がなく、強いて表現するならKarmic connection(業による結びつき)となる。 その語源であるサンスクリット語の「カルマ(業)」とは、自らの「行為」そのものを指す。 つまり、私たちが何気なく口にする「縁」とは、過去の自分の歩みが手繰り寄せた、必然の結び目なのだ。


私の人生に起きたミラクルを挙げればきりがない。

しかし、危機を回避したという消極的な奇跡よりも、ある種の「大いなる意思」によって出会わされたとしか思えない存在に直面したときの方が、私は隠れた何かの存在をより強く確信してしまう。

 

例えば、私が深く心を通わせている、二人の若い男性がいる。

一人は日本人、もう一人は英国人だ。

奇妙なのは、彼らの伴侶の国籍である。

日本人の彼の妻はミャンマー人であり、英国人の彼の妻スペイン人なのだ。

 

私にとって、これは震えるほどの奇遇であった。

スペインは若い頃に留学し、私の人生観を決定づけた国であり、ミャンマーは十年前に一ヶ月に及ぶ撮影旅行で全身全霊を傾けた思い出深い国である。

しかもどちらの国も、自らハンドルを握り、全国を走り回るという、泥臭くも濃密な体験をした地であった。

 

世界に無数にある国々の中で、私の人生の骨格を作った二つの国が、私が特別に目をかける二人の青年の家庭を通じて、再び私の目の前に現れた。 これを単なる「確率のいたずら」として片付けるにはあまりにもジグソーパズルのピースが合い過ぎている。

 

また、かつて個人事業主として成功を収めることができたのも、ある顧客との決定的な出会いがすべてのはじまりだった。

https://mafnet.jp/blog/archives/1126

 

また、現役を退いた後の私に、再び新たな生きがいを示してくれたのも、私を頼って訪ねてきてくれた一人の若い青年との出会いであった。

https://mafnet.jp/blog/archives/2131


これらの体験は、一見すると私だけに起きた「特別なミラクル」のように思える。 しかし、この極端な奇遇や、危機一髪の回避という現象を突き詰めて考えると、一つの論理的帰結に至る。

 

これほど精緻なパズルが私の人生の盤上で組み上がるということは、私と言いう人間のあずかり知らぬところで、世界を覆う「因果の網の目」が常に、冷徹なまでの精度で機能しているということの証明に他ならない。

そして、もしそのような網の目がこの世界に実在するのであれば、それが私一人にだけ適用されているはずがない。 システムはすべての人に対して平等に、例外なく働いているはずだ。

 

つまり、私が経験した劇的な出会いや危機一髪の回避は、私だけに起きた奇跡ではない。 誰もが例外なく、この無数の因果の網の目の中に生きており、そのシステムに生かされている。

 

ただ、多くの人は、網の目がもたらす結果を「たまたまの偶然」や「不条理な不運」として見過ごしてしまうだけなのだ。

私たちが「偶然という名の必然」の美しさに気づけるかどうかは、自らの過去をどれだけ深く凝視し、目の前の出会いにどれだけ切実に向き合っているかという、受け手側の感度にかかっているのではないだろうか。

 

私はただ、その網の目の存在を静かに受け入れつつある。

それは運命と呼ぶにはあまりに無言で、しかし確かに働いている。

 

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