地元の友人たちと毎日のようにLINEでやり取りしている。
いい歳をした年寄り同士が、テレビに登場する女子アナやテレビ体操のお姉さんを巡って、まるで少年のように夢を語り合っているのだ。
「この娘は私のイチ推しです!」
そんなメッセージとともに画像が送られてくると、すかさず別のメンバーがこう返す。
「申し訳ないが、その娘には昨年から私が先に『唾つけて』おります。」
もちろん冗談である。
だが、この「所有権争い」が妙に白熱するのだから可笑しい。
夢の所有権は、誰にも縛られない自由なものだ。
私は、毎朝テレビ体操に密かに「お気に入り」がいる。
可愛いなぁと思って眺めていると、ふと笑みを浮かべた瞬間、自分に向かって微笑んでくれたような錯覚すら覚える。
そんな日々が続くと、まるで自分の存在を知ってくれているかのような気さえしてくる。
だが、彼女たちは下手をすれば孫の世代である。
それでも可愛くてしかたがない。
そしてふと、「もしかしたらもう彼氏がいるに違いない」と胸がざわつき、嫉妬とも心配ともつかない感情が湧き上がる。
―― まったく、年寄りの戯言である。
しかし、若いころの恋心を思い返すと、こうした感情の根は同じなのだと気づく。
映画でぎこちない恋の場面を見ると、淡くも熱かった初恋の記憶がふっとよみがえる。
あのころの恋は、ただ相手の姿を遠くから拝むだけで胸がいっぱいになった。
近くにいると胸が高鳴り、世の中の女性が目に入らなくなり、ただ一人の存在が世界一の宝物に思えた。
冷静に考えれば、そんなはずはないのに、そう思い込んでしまうのだ。
人間の異性への憧れや夢は、本源的なものだ。
若いころの恋心と同じ回路は今も変わらず働いている。
歳を重ねても、消え失せるものではないようだ。
日本中の視聴者に顔を知られている女子アナや、声を聞いたことも話したこともない体操のお姉さんに、一方的に夢を描いてしまう ―― それが、その証拠なのだ。
女子アナや体操のお姉さんは、ある意味美人コンテストのステージに立つ女性を第三者として覗いているようなものだ。
しかし、ドラマや映画に登場する人物に惹き込まれる状況とはまったく異なる。
淡い恋の青春ドラマに限らず、あらゆる恋愛場面が出てくる作品は、その登場人物に自分が向き合った感情ではなく、登場人物に自分を置き換えて、そのストーリーを現実の物として体験させる点が大きく違う。
「偶像崇拝」ではなく、冷静な目で見た客観的な物語を、自分の実体験に置き換えてしまうところがリアルなのだ。
人間は本当に美しい。
動物は繁殖期を迎えたときだけ異性に近寄り、相手をものにしようとする。
そこに恋物語は必要ない。
人間はこの歳になっても、夢に惹かれる。
その違いは何なのだろうか、そしてどうしてそうなのだろうかと、疑問は尽きない。
はっきりしているのは、若いときの現実の恋とは違い、憧れと夢想は誰も傷つけないということだ。
それを知っているからこそ、堂々と大切な夢を人に語れる。
そもそも身体は老いても、感情の回路はそのまま残っている。
老いていく身体を知っているからこそ、余計にその感情を大事に思い返している。
憧れは歳をとらない。
身体はゆっくり古びていくのに、心だけは昔のまま、ときめきを忘れていない。
そんな感情がまだ残っているのが、なんだか嬉しい。