道ですれ違った若い男性を見て、私は思わずはっとした。
懐かしいベレー帽をかぶっていたからである。 ベレー帽は昭和時代に強い存在感を示したファッションで、手塚治虫や富士子不二雄といった漫画家の象徴的なアイテムでもあった。
その姿を目にした瞬間、私は昭和の世界に引き戻されたような感覚にとらわれた。 現代の若者がそれを身につけていることが、なんとも不思議に思えたのである。 帰宅後に調べてみると、ベレー帽はいつの間にかリバイバル・トレンドとして広まりつつあることが分かった。
復活ファッションとしてのベレー帽はさておき、テレビで昭和や大正時代の人々が登場すると、たとえ映像の質が現在のビデオ並みに高くても、一瞬で「昔の人」だと分かる。
それはファッションの違いによるものだ。
私はファッションにあまり関心ないのだが、多くの人は実に敏感である。 昔の映像を見ると、私はどうしても滑稽に感じてしまう。 今から見ると到底受け入れがたいような服装を身にまといながらも、それが当たり前の肯定されるべきファッションであるかのような顔をして堂々と歩いているからだ。
ファッション論を語るほどの知見はないが、哲学の世界から感じることは多い。
突き詰めれば、ファッションとは「自分が何者であるか」を外の世界に語るものであり、自分の「生き方」を表現した、身にまとう衣装なのだ。
そこで浮かぶ疑問は、なぜ人は時代のトレンドとも言うべきブームに染まってしまうのか、という点である。
私は、良いにつけ悪いにつけ、他人と同じことが好きではない性格を持っている。 何かを選ぶとき、まず第一に「人と違うこと」というフィルターにかけ、それを通らなかったものは除外してしまう。
言い換えると、私はトレンドやブームには基本的に従わない。
それが、私という人間のアイデンティティだからだ。
世の中にはアイデンティティを求め、掲げる人が多いが、そう言いながらファッションに限らず流行の流儀に染まっている人が多いように思う。
特にファッションは外見的で人目を引くせいか、こだわりを持つ人が多い。 私はまったく興味がないので、自分が気に入った服装をしているだけだ。 しかし、近しい人と話すと、たとえば「そのズボンはもう遅れている、今はみんな○○を履いている」などの言葉が出てくる。
つまり、流行にのっていないと「ダサい」と言われるのである。
これはもう、言い訳のしようがないアイデンティティの放棄だ。
話は、ファッションだけにとどまらない。
SNSと言えばSNS、YouTubeと言えばYouTubeと、示し合わせたかのように他人と同じものに熱中する。
なぜ、自分だけの世界を開いてそこに熱中しないのか。 私ははなはだ不思議に思う。
小さい子どもの遊びも常にそうだ。
人気キャラクターはいつも同じで、今はシール交換をするために分厚いシール帳を持ち歩かなければ仲間外れにされかねない。
さまざまなことで、子どもは親に「みんなやってるんだからぁ」と言っておねだりをする。 どの世界でも同じだ。
「個」という意識が芽生える前は、「仲間外れ」されることを何より恐れる。 それが成長とともに「個性」を求めるようになる。
長い物に巻かれたり、目の前に展開しているものに何の疑問も持たず、自分自身の価値観というフィルターも通さずに受け入れたり取り込んだりするのは、ひとりの個性を持って生きている人間として、なんとももったいない。
人それぞれ自由であり、私が口をはさむべきことではない。
しかし、ひとりの人間としてこの世に生まれてきたのなら、自分自身の、自分ならではの価値観で身をまとい、ものごとに取り組んだら、もっと魅力的になるのにと、どうしても思ってしまう。