「また会おう」と言えるうちに ―― 別れを逆算して生きる

息子はもう十年近く海外勤務で、年に一度の一時帰国や、業務上の出張で帰国する際にしか会うことはない。ましてや孫たちを含めた家族とは、年一度の帰国でしか顔を合わせられない。

 

息子が帰国すると、毎回夜遅くまで酒を飲み交わす。海外勤務が始まったばかりの頃は、私もまだ現役で、会うたびにハッパをかけ、親としての期待を語った。最近では、息子が歩んでいる道の確かさに相槌を打つことが増えた。

 

ほとんどの場合、週末の二泊で、月曜の朝にはお別れとなる。近くの駅まで車で見送り、別れ際に固い握手を交わす。驚くほど強い握力に圧倒されながら、私が毎回言う言葉は「会えたら、また会おう!」だ。息子は半分困ったように苦笑しながら、手を強く握り返す。

 

この言葉を口にする私の思いは、かなり本気だ。六十代の現役の頃には抱いたことのない感情だが、社会的役割を終えた身になると、生きるスタンスも心構えも大きく変わってしまった。
日一日が人生の余白となり、どこでそれが最後のページになってもおかしくないと感じるようになる。

 

夫婦の会話においては、その思いはさらに強い。妻に対する私の姿勢は以前とはまったく変わった。自分の「正しさ」を押し通したり、妻の「正しさ」を否定したりすることがなくなった。
心のどこかで、「もしこの瞬間が最後になるのなら、そんなことをしたら必ず後悔する」と思うようになったからだ。


若い頃は、目の前の人が自分から遠いあの世に去っていくことも、自分が目の前の人からあの世に去っていくことも、ほとんど想定しない。だから万事に容赦がない。怒り、恨み、妬みなど、あらゆる感情が生まれ、それらから簡単には逃れられない。

 

しかし六十歳を過ぎる頃から、同輩が世を去る場面にポツポツと遭遇する。すると、生前に抱いていた感情が一気にほどけ、ネガティブな感情を抱いていた相手であれば、強い自責の念に囚われる。
相手がこの世に「存在しているか、いないか」が、こんなにも自分の感情を支配していたのかと痛感する。


世の中を見渡せば、人間はいつあの世に旅立ってもおかしくない。事故・事件・戦争の三つは、人の生命をいとも簡単に絶ってしまう。高齢者はあの世に近いと考え、それなりに心の準備をして生きているが、不可避な外的要因による死は、交通事故を除けば圧倒的に若年層が多い。

 

だから、不運に見舞われたときのショックが大きいのは、そのような事態を想像もしない若い世代なのだ。戦争は徴兵された段階で否応なしに心の準備ができるのだろうが、事故や事件はまったく予見できない。

 

結局、どの世代においても、いつどこで絶たれても後悔しない生き方を「逆算して」身を振る舞うことが、自分のために大切なのだと分かる。
自分の人生を振り返れば、そんなことは到底できなかったと分かっている。しかし、それこそが人間関係の中で生まれる対人感情なのだと思う。

 

結局のところ、有限であることを意識するのは、高齢者だけの特権ではない。
若い人も、中年の人も、そして私のように人生の後半を歩む者も、
「今日が最後かもしれない」という想像力を持つことで、他者への態度は静かに、しかし確実に変わっていくだろう。

 

その想像力は、年齢に関係なく、人間関係を柔らかくし、自分の生を丁寧に扱うための小さな灯りになる。
誰もがその灯りを手にして生きられたなら、
人生の余白は、世代を超えて穏やかに照らされるのだと思う。

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