「今日も生きて、物語を続けよう」というメッセージ

会社の同僚であろうと友人であろうと、人にはウマが合わない相手がいるものだ。ましてや何かで意見が衝突して嫌な思いをさせられた相手に対しては、嫌悪に近い感情を抱くこともある。「おだやかに、優しく、そして謙虚に」と自分言い聞かせるが、燻ぶったまま、過ぎ去る時間がそのわだかまりを薄めてくれた関係もある。

 

そんな相手の訃報に接すると、そんな相手に抱いていた不愉快な思いは瞬時に消え去って、そういう感情を抱いていたこと自体に申し訳なさを感じる。そうしてその相手に対して心から冥福をお祈りする気持ちがこみあげてくる。人間の感情とは不思議なものだ。

 

生きている者同士の関係は常に変化し続ける。

だからこそ、怒りも嫌悪も、時間とともに形を変えたり、薄れたり、逆に強まったりする。

しかし死はその変化を止める。その瞬間、相手は「過去の人」となり、自分の物語の中で固定される。その固定化が、「怒りを抱いていたこと自体が申し訳ない」という感情を呼び起こす。

 

すべての怒りや不快感・嫌悪感は、もう過去のもので現実の世界からは完全に消え去ってしまったと思うと、あの時の思い出はいったい何だったのだろうと思ってしまう。この世を去った者は、自分の世界から去った人であり、今となっては一切の関係をもたない「過去の人」なのだ。これ以上悪くも良くもならない人だ。「人生は命あってこそ」とつくづく思う。


自分という物語から消え去った人の中には、忘れられない人、理解し合えた人、和解できなかった人が混在している。

そして死は、どのような人であれ、現在の関係の相手から物語の登場人物へと変える。

 

死は、他者の物語を閉じる。同時に、自分自身の物語の存在感を強く意識させる。死者は自分の物語の中で固定されるが、自分は、生きている限りその物語を編集し続けることができる。


だからこそ、

とにかく死なずに生きることだ。

 

生きている限り、自分は物語を書き続けられる。

やがて、自分が登場者の最後の一人になれば、自分の物語を完全に自分の視点で閉じることができる。

そして、その物語を語る者が自分以外に誰もいなくなったときに物語は完成する。

 

死んだら終わり。

誰が主役になるのか、それまでは絶対にわからないし決まらない。

物語の途中で、誰かに華々しく輝く場面があったとしても、

最後に主役となる人の物語の脇役に過ぎない。

 

語り手が一人になったとき、その人が主役だ。

物語の終点を見届けられるのは、生き残った者だけだから。

 

だから、

主役になりたいなら、とにかく生きることだ。

生きていれば、物語は続くし、書き換えられる。

 

それは重い話ではなく、

「今日も生きて、物語を続けよう」という、

わりとシンプルで明るいメッセージだ。

 

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