妻は昔から熱心な新聞ファンである。 紙に書かれた文字は落ち着いて頭にすっと入ってくるのだと言う。 結婚して四十六年、我が家の食卓にはいつも新聞があった。 しかし、テレビの速報性こそが「ニュース」だと信じて疑わなかった私は、長らくその紙面にまともな目を向けることなく過ごしてきた。
ところが最近、その新聞が私の視界に割り込んできた。 きっかけは、テレビのニュース報道に感じたある種の限界である。 特に複雑に入り組んだ海外の政治情勢など、映像と言葉が瞬く間に流れ去っていくフロー型のメディアでは、文脈の理解が追いつかない場面が増えてきたのだ。
助けを求めるように手にした新聞を開いて驚いた。 そこには事件の背景や経緯が体系的に記述されており、理解できなければ何度でも前後の文脈を読み返せる。 さらに、関連する解説記事が同じ紙面に並んでいるため、構造的な理解が自然と深まっていく。
また、それまで関心を持たなかった内容の記事も並んでいて、そこには新たな出会いと発見があり、自分の世界を限りなく広げてくれる可能性がある。
活字メディアが持つ「ストックとしての価値」を、今更のように発見したのである。
一方、現代の情報環境は真逆の方向へ突き進んでいる。 海外勤務の長い息子に日本のニュースの追い方を尋ねたところ、「YouTubeで十分にキャッチアップできる」という答えが返ってきた。 まさに現代の象徴だろう。
思えば、昭和の通勤電車の風景は凄まじかった。 吊革に掴まることすら困難なすし詰めの車内で、乗客たちは新聞を八つ折りにし、貪るように社会の動向を追っていた。 あの熱気は今や完全に消え失せ、現在の車内はスマートフォンを凝視する人々の静寂に包まれている。
スマートフォンは確かに便利だが、小さな画面は長文の精読を拒む。 結果としてネットニュースは断片化され、SNS上のショート動画のような、刹那的で刺激的な情報が圧倒的な支持を得ることになる。
しかし、ニュースが短文化すること以上に深刻なのは、私たちが「世の中全体」を見失い、「自分が選択したもの、あるいはアルゴリズムによって選択させられたもの」だけに囲まれてしまう点にある。
放送時間に縛られるテレビも同様だが、ネット空間における情報の偏食傾向はとりわけ顕著だ。
関心のある領域以外が完全に削ぎ落とされた世界で、私たちは社会を俯瞰する視座を失いつつある。
世の中の価値観が多様化し、情報が混迷を極める今だからこそ、新聞というメディアが放つ独特の光が際立つ。
雨の日も風の日も毎朝ポストに届けられ、自らの関心の有無にかかわらず、社会の出来事を広い目でまんべんなく伝えてくれる。
この精緻にデザインされた情報システムが、月わずか四千円程度で維持されているということの価値を、私たちは今一度、正当に評価すべきではないだろうか。