デジタル万能・AIの時代がもたらす物

私はAIが今後進化を続けて今は想像もできないような便利な社会を作ってくれるとは思うが、諸手を挙げて歓迎する気持ちにはなれない。 歴史が証明している様に、優れた技術が平和利用に留まった例はないからだ。 原子爆弾が良い例だ。

 

殺戮を(さつりく)をプログラムされたAIを頭脳に持った「殺人ロボット兵器」がどれだけ恐ろしい結果を招くのか考えると、私はAIに対する疎ましい気持ちを禁じ得ない。 スマホのChatGPTで、百科事典代わりにさらっと使う程度で、それ以上深入りするつもりはない。

 

ところが、パソコンの代表的な必須アプリケーションとも言うべきMicrosoftのお馴染みのWordなどのアプリ・セット「Office 365」の年度更新期限が来たので更新して「Microsoft 365」にしたら、とんでもないものがくっついて来た。 「Copilot」だ。 かなり前から付属されていたようだが、私は更新期限が来たこの時までお目にかかった事はなかった。

 

Wordを立ち上げて「白紙の文書」を開くと一緒に立ち上がる。 最初は「なんだこりゃ?」と驚いたが、ちょっといじって見てすぐに理解した。 「AI文書作成ツール」だ。 「なんの文書を作成しますか?」と問われたので、暇な時間が出来た時に相手をしてやった。

 

「人生について」と入力したら、さらさらと草案が出力された。 出力された文章は論理構成がきちんとされていて、見出しまでついている、形式上は完璧な「作品」だ。 いったいどういうつもりで、「人間から考える事や創作力を奪う」こんな機能を、文書作成の標準的プラットホームたるMicrosoft Wordに搭載したのか。 私はかなり失望した。

 

このnoteにこれで自動作成された記事がそのまま載っているとは思わないが、これから年月が経ち、すべての人がこう言う物の存在に麻痺して来た時に、自動作成させたものに手にして創作されたものらしく見せるように少し化粧をして公開されると言う事態が、何処の文書公開の場でも起こり得る可能性は否定できない。

 

もしかしたら作成された草案をたたき台にして、それに肉付けをして作品を作って行くと言う方法が今既に使われているかもしれない。 文章作品で個性・創作性が込められた一番大切な「骨組み作り」をAIに任せると言う事は、絵画に例えれば下絵のデッサンをAIロボットに描かせると同じ事だ。

 

AIに限らず最新鋭のデジタル機器は、人間からオリジナリティを奪い、人間を無能にしかねない。 無能になるのは本人の選択だから百歩譲って仕方ないとしても、一番面倒なのは人間の創作に依らない作品が、創作された作品の間に紛れ込んでしまう事だ。 そして最後には、人間が両者の間に価値の差を感じなくなる亊だ。

 

昨日、市内の小さな展示会場を訪れて展示されている写真を観た。 素晴らしい風景写真などが色々展示されていて楽しませて貰ったが、ある作品に目が止まった。 雲の上を飛行するジェット旅客機を少し離れて横に並んで飛行する別の飛行機から撮影した写真で、その旅客機の背景の青空に丸い満月が写っている。

 

飛行機がこんな至近距離かつ同じ高度で並んで飛ぶ事は、特別に企画し航空管制官に特別に許可された状況以外ではちょっと考えられないので、誰もが一瞬驚くような写真だ。 どこかの航空会社のCM動画でしか見た事がない様な場面だった。 私は自分が写真・映像を仕事にして来たので、こう言う物はすごく気になる。

 

良く見ると、下の方に写っている雲に当たっているちょっと色づいた夕方の太陽光の方角が横から当たっているように見えるのに正面に満月が写っている事、あまりにも月の位置が旅客のど真ん中にぴったりと合っている事がとても異様に感じた。 またもし完全な満月だとしたら、明るい青空を背景にする事は(月が太陽と正反対の位置にある時だから)あり得ないので、すごく気になった。 作者はなんと高校一年生と書いてあった。

 

もし万が一これが合成写真だとしても、合成写真自体は悪い訳ではない。 そう言う写真作品のジャンルは立派にある。 ただ、これから感性に磨きをかけて行くであろう思春期の若い高校生が、もしこう言う物にエネルギーを注いでいるとしたら私としてはちょっと残念に感じてしまう。 画像合成もデジタルの時代になった今だから簡単にできるようになった芸当だ。 これが単に私の思い込みで、失礼な勘違いである事を祈りたい。

 

私の可愛い小学校2年生の孫娘が、以前にカレンダーの裏にクレヨンでオリジナリティ溢れる沢山の花の絵を素晴らしい色彩で描いてくれて、私はその作品に大層感動して大きな額に入れて家の壁に掛けてある。 その色遣いは彼女の感性その物だと、小さな孫娘が秘めていた創作性に胸を打たれたからだった。

 

自分の絵をまた飾って貰いたいと思った彼女が、先日遊びに来た時にまた絵を描くと言ったのでカレンダーの裏紙とクレヨンを渡した。 彼女はちょっと考えた後、私のスマホに手を伸ばしていとも簡単に花の画像を検索して、それを私に見せて「ねぇじ~じ、どれがいい?」と聞いて来た。

 

「え?」と驚いたが、取り敢えずひとつ選んだら、彼女はぐちゅぐちゅと適当に真似して描き、再び「こんどは、どれがいい?」と聞いて来た。 先日の彼女とは全く異なる一面を見せられて、私はがっかりと失望した。 まだ小さいのだから仕方ないのだろうが、その日の「作品」が飾られる事はなかった。

 

私の孫娘だけの問題ではない。 日頃からスマホをおもちゃにして遊び、大人顔負けでさらさらとスマホを操作して、YouTubeにくぎ付けとなっている今の子供達は確実に何かを失っていると感じる。

 

その孫娘が夏休みの最後に泊まりに来た。 やりかけの夏休みの宿題も持って来た。 ママから仕上げて来るようにと厳重に言われて来たらしい。 その中に読書感想文があった。 ちょっと読んでみたら、素晴らしい。 しかし、「わたしは、かんどうしたことが3つありました。 ひとつは・・・・」と小学校2年生のあの孫が書ける文章ではない事に気が付いた。

 

いつまでも出来上がらないのに困ったママが教えて書かせたものだったのかもしれない。 ただ、ママは特に文章書きが得意な娘ではないし、こんな論理的構成をした文章を書く娘でもないのだが、万が一にもAIを使って書いたものではなかったと信じたい。

 

文章も、写真も、絵も、作品として手掛けるのなら一番大切な物は作者の持つ感性を現したオリジナリティだ。 どんなものであったとしても、嘘のない創作性が私の胸を打つ。

 

デジタル技術と頭脳たるAIは、使い方ひとつで殺人兵器を簡単に生み出すことができる恐ろしい存在だ。 しかしそれ以前に人間を無能で考える事ができない、創作する事ができないものにしてしまう可能性を持っている事がまず何よりも恐ろしい。

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