永遠に残せるもの

終活の第一歩として、家中に溢れていた墓に一緒に持って行けないものを全て処分して身軽になった私は、もう以前のように物を買うことはなくなった。 買うのは食べ物と消費財だけになった。 70歳になった時にタバコも晩酌もやめたので、昔と比べるとまるで聖人君子のようだ。 こんな生活をもっと早くしていれば、お金も沢山残っていただろう。

 

こんな私が今残せるものは、大切な人達の心の中に残す想い出くらいだろう。

私が生きて来た証に、私との想い出を残せて貰えたらとても嬉しく思う。

しかし、その想い出もその大切な人達が亡くなればこの世から永遠に消えてしまう。 高価な「物」にしたっていずれはゴミとして捨てられてしまうのだから同じ事かもしれない。 この世に永遠に残るものはなかなかないようだ。

 

今から数百年経っても残っているであろうものは、例えばベートーベンとかモーツアルトの名とその音楽とか、いわゆる名作と言われるあらゆる分野の作品や、いろいろな分野の学者・研究者の名とその研究成果などであろう。 すなわち「偉人」と呼ばれる人々とその足跡だ。 多くの人達は海の藻屑と消えて行くのに較べてなんとも素晴らしい事だ。

 

偉人でない私はすぐに世から忘れ去られるとして、ならば今はどうやって生きて行けばいいのだろうか。 色々悩んだ結果、私は大切な人達の心の中に自分の想い出を残すのではなく、自分の心の中に大切な人達の想い出をたくさん残す事にした。 そうすればお墓の中まで持って行き、永遠に一緒に残る事ができるからだ。

 

最近めっきり写真を撮らなくなった。 仮初めにもフォトグラファーを名乗って来た私がカメラを持たなくなったのだから、自分でも驚いている。 十数台あったカメラのほとんどは処分し、今は2,3台残っているだけだ。 その残されたカメラにも、何故かもう余り触る気がしない。 

 

永年趣味だった写真撮影を発展させ、タイムラプス・フォトグラファーとして仕事として十数年間個人会社を営んで来たが、今年の春にそれを廃業した後、写真撮影は趣味に戻らなかった。 私の中では会社と一緒に過去の物となってしまった。 フォトグラファーとして仕事をしている内に歳月は過ぎ、趣味で写真を撮ろうと思っても、人生の終わりが見えるようになった今、保存する為の写真アルバムを作る理由が無くなったしまったからだ。 何よりも、写真は墓場までは持っていけないのだから、何かとても大切な出来事があったなら、目にしっかり焼き付けて心に保存しようと思うようになった。

 

折しも世はスマホ全盛で、老若男女を問わず万人がカメラマンとなり、家族や親族の間ではネット経由で「家族アルバム みてね」が飛び交っている。

私にも子供達の「家族アルバム みてねに写真が追加されました!」とメールが届くがなかなか覗かない。

 

実際に孫たちに会って、自分の目で画角を決め、焦点を合わせ、露出を決めて直接自分の目に焼き付けたいからだ。

これがフォトグラファー最後の心意気ってものかもしれない。

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