入れ墨ほど古い歴史を持ち、世界中に存在し、善の印と悪の烙印の両義性を帯びた身体表現は他にない。
旧石器時代にまで遡るその起源を知った今でこそそう言えるが、昭和の価値観の中で育った私にとって、入れ墨は長らく「悪の象徴」であり、やくざや不良の身体に刻まれる烙印だった。まともな人間が身に施すものではない ―― そう信じて疑わなかった。
成人して海外に出るようになったとき、街中で堂々と入れ墨を見せる外国人を目にし、私は驚いた。日本の文化が輸出されたのかと思い、さらにそれがファッションとして受容されていることに感心した。しかし、その驚きは単なる異文化体験にとどまらず、私自身の美意識を揺さぶる出来事へとつながっていく。
スペイン留学から三十年以上が経ち、同国を再訪し当時の学生たちと再会する機会があった。とりわけ印象に残っていた、爽やかで美しかったスペイン人女性 ―― 私の記憶の中では、陽光のような明るさと草花のような素朴さをまとった人 ―― の腕に、錨のような入れ墨が刻まれていたのを見た瞬間、私は目を疑った。
私の美の基準では、その刺青は理解しがたいものだった。率直に言えば、失望に近い感情が胸をよぎった。
しかしあらためて周囲を見渡すと、入れ墨を施した女性は珍しくもない。私が抱いていた「女性の肌は自然のままが美しい」という価値観は、世界の美意識の中では決して普遍ではなかったのだ。
この違和感の正体を知りたいと思い、入れ墨の歴史を調べると、世界各地で多様な意味を帯びてきたことがわかった。異民族の識別、刑罰としての烙印、呪術的な護符、そして近代以降は芸術的表現や身体表現としての定着。
ここで私は一つの事実に気づいた。
入れ墨が広く受け入れられている文化では、身体そのものを「飾ることができるもの」と考えている。
つまり、入れ墨が身体表現として定着したというのは、
身体は生まれたままの姿である必要はなく、 自分の意思で「手を加えてよいもの」だと考える文化がある、
ということなのだ。
この前提は、日本の身体観とは大きく異なる。
日本では、身体は「授かったもの」であり、自然性や清潔性が美の基準となる。西欧では、身体は「自己表現の媒体」であり、変化させること自体が美の一部となる。
私は自分を「国際的感覚を育ててきた人間」だと思っていた。しかし、入れ墨という世界的に親しまれる文化に対しては、いまだ素直に受け止めきれない。
口紅や付けまつ毛は外せる。髪色は染め直せる。しかし、親から授かった肌に不可逆の加工を施す理由が、どうしても腑に落ちない。
しかし、この身体観の違いを理解したとき、私の中で長らく固定されていた美の基準が、静かに揺らぎ始めた。
つまるところ、「美とは何か、そして身体とは何か」という問いにたどり着く。 私が抱えてきた違和感は、単なる好みの問題ではなく、身体をどう捉えるかという文化的前提の差異から生まれていたのだ。
近年、日本を訪れる外国人観光客が増え、街中でも入れ墨を目にする機会が増えた。特に西欧では、男女ともに刺青率が高く、イタリアでは半数近くが入れ墨をしているとも言われる。私はただの世間知らずだったのだろう。しかし、世間知らずであったことを認めることは、価値観の更新を始める第一歩でもある。
世界の人々が入れ墨に込める意味、美意識の多様性を前にすると、私自身の美の基準もまた揺らぎ続けている。
その揺らぎを抱えたまま、私はいまも世界の美意識と向き合い続けている。
入れ墨という小さな模様は、私に身体の意味を問い直す契機を与え続けている。