二十年近くの間、思い出したように封書で便りを交わしているサラリーマン時代の後輩がいる。
誠実でとても知的な彼が送ってくる手紙は、和紙の縦書き便箋に、きれいなペン書きで綴られている。
印刷された文字は、どれほど内容が良くても、基本的には「文字情報」しか伝えない。
だが、手書きのペン字には、ペン先の走らせ方、筆圧の変化、字の崩れ方に、書き手の人柄や情感が滲み込んでいる。
読んでいると、その人の息づかいまで感じられるようで、伝わってくるものの量が圧倒的に違う。
読み終えたあとには、まるでその人を目の前にして、直接話を聞いたような後味が残る。
残念ながら、私にはとても彼の真似はできない。
私の手紙は、A4用紙にWordで横書きしたものを印刷した、味気ないスタイルだ。
誠意を込めた手紙を、手書きで送ってくれる彼に対して、どこか引け目と申し訳なさを感じている。
今の時代、知人と手紙で便りを交わすことはめっきり珍しくなった。
その役割の多くを、今はLINEが担っている。
十五年前に日本で誕生したLINEは、その豊富で多彩な機能に支えられ、またたく間に広まった。
今では日本国内で一億人以上、ほとんどのスマホ利用者が使っているメッセージングツールだ。
海外では別のツールも主役になっていて、私は欧州の友人とはWhatsApp、韓国の友人とはKakaoTalkを併用している。
これらのツールの便利さは、言うまでもない。
ただ、長文のやり取りには向かないし、文章の体裁も整えにくく、どうしても味気ない。
「用件を伝える」ことには優れているが、「時間を共有する」感覚は薄い。
私が手紙で便りを交わしているのは、その後輩一人だけだ。
頻度は多くないが、二十年前から途切れず続いているやりとりには、変わらない気持ちが通っている。
彼からの便りを受け取ると、まず何度も丁寧に読み返す。
そのたびに、彼のいまの姿が瞼に浮かぶ。
返事を書く私はパソコンで打つので、修正や書き直しはいくらでもできる。
もともと字が下手なので、手書きという選択肢はないのだが、もし自分が手書きで何枚もの便箋を書き上げることを想像すると、消せないペン字で書き続けている彼には、本当に敬服するばかりだ。
印刷した手紙を封筒に入れ、少し緊張しながら宛名を書く。
手で文字を書くことをほとんどしなくなって、もう四十五年は経つ。
読めても正確に書けない漢字がとても多い。
パソコン画面で漢字変換をして、ズームで拡大しながら「縦棒・横棒」を一本ずつなぞることもある。
毎回、ネットで郵便料金を確認する。
改訂されているかもしれないからだ。
手持ちの切手は昔のものばかりなので、額面を足し算しながら、過不足のないように二、三枚を貼ることになる。
そうやって、ようやくポストに投函する。
この一連の手順は、EメールやSNSと比べると、まるで原始時代と現代のようだ。
投函したあとは、「もう着いたかな?」と、相手のポストを想像する。
忘れたころに届く返信を手にしたときの嬉しさは、スマホの着信音が鳴ったときのそれとは、比べものにならない。
今や忘れかけられている、この「手紙」という存在。
彼の家は直線距離にしてせいぜい六十キロほどで、車でも電車でも二時間もあれば着く距離だ。
それでも、わざわざ紙に文字を書き、封筒に入れ、切手を貼り、ポストに投函する。
そうした手間をかけていること自体が、どこか滑稽であり、同時に愛おしくもある。
私の事務机の上には、複数台のパソコンのモニターが並んでいる。
そのうち一台は常にLINEを表示していて、頻繁にやり取りするグループのページをいくつかの小さなウインドウにして並べ、「常時監視体制」を敷いている。
そんな生活の中で交わしている、彼との手紙だけが感じさせてくれるものは大きい。
スマホで聴けるデジタルオーディオではなく、
コーヒーをすすりながら、ゆったりと昔ながらのレコードを聴いているような時間。
その静かな針の音のように、
これからも、彼との手紙通信をずっと続けていきたい。