「惚れた他人」は自分に憧れの姿を見せてくれるが、「惚れた自分」は自分を未来へと導いてくれる。
私がここで言う「自分に惚れる」とは、自己像に溺れるナルシズムではない。
むしろ、自分の人生をそっと肯定する確かなまなざしのことだ。
自分に惚れると聞くと、多くの人は「ナルシズム」を連想する。
ナルシズムとは、「自己への陶酔が他者との関係を遠ざけ、ますます自己像に執着する心理状態」を指す。
ある本でナルシズム(Narcissism)と言う語の語源を知り、とても興味を持った。 もとは、ギリシア神話の物語に由来する。
湖の水面に映った自分の姿に恋をしてしまった青年ナルシスが、自分の美しさに惚れ込み、他者を愛せなくなり、湖から離れられないまま衰弱し、命を落として花になったという話である。
ナルシズムとは、一人の人間の性格や精神性に根差した、理想化された自己への愛だ。 度合いが強くなると、病的なレベルに達することもある。
先日見たテレビ番組で、マンションのドアガラスに映る自分の姿に見とれる犬の姿が紹介されていた。
もちろん、その犬は自分の姿に見とれていたわけではなく、むしろそれを「別の犬」だと思い、好奇心を持って眺めているようだった。 マンション内に明るい照明が灯され、自分の姿が映らなくなると、ドアガラスの前に立ち止まることはなくなった。
この犬は、単に別の犬が好意的に見ていると思っていただけかもしれない。 しかし、もしかしたら自分の姿に見とれていたのかもしれない。 答えは「本犬」に聞かないと分からないが、もし後者なら「自己陶酔」と言う状態に近かったと言える。
動物でさえ、自分の姿に何かを感じることがある。まして人間なら、なおさらだ。 ただ、少なくとも人間の場合は、よほど素晴らしい容姿に恵まれた人でない限り、自分の姿を鏡に映してうっとりとすることはないだろう。
しかし、「自己陶酔」の対象は容姿だけではない。
ナルシズムほどではないにしても、自己陶酔はネガティブな状況として語られることが多いように思う。
だが、私は決して愚かなことでも悪いことでもないと思っている。
自分の人生を、他人の人生のように眺め、「これでいいのだ」とその姿に自分の理想像をそっと重ねる。
他人がどう思おうと関係はない。
自分自身が自分であることに感動する瞬間なのだ。
他人との比較も関係がない。
自分が一杯の酒として旨いのかどうか。
香り、余韻、くせ、深みをじっくりと味わい、酔う瞬間だ。
自己陶酔には、その人の人生の物語が深くかかわっている。
今その瞬間、それを振り返って感じる自己愛は、自分という存在の肯定であり、それが明日からの新たな力を生む。
自己陶酔には三つの側面がある。
「過去の自分」への敬意。
「今の自分」への承認。
「未来の自分」へのエール。
自己陶酔は生きる力になるのだ。
そこに自己陶酔の大切さがある。