やりたいことは、すべてやった

「あれもやりたかった、それもやりたかった、だけど、たいしたことは何もできなかった」と言う人がいる中で、いまを穏やかな気持ちで生きている私は、「本当にやりたいことはすべてやった」と感慨深い思いに浸ることがある。

 

そのために負担をかけ、犠牲となった家族がいた。 それは決して償い切れないことだと自らを戒め、静かに深々とこうべを垂れている私は、こんな「いま」が訪れたことを本当に幸せだと思う。

 

生きている中で、人はさまざまな困難に出会う。 自分に原因や責任があるときもあれば、ないときもある。 絶望の淵に立たされ、もう立ち上がれないような状態に陥ってしまうこともある。 人間関係が問題の場合も、仕事上の問題の場合も、健康上の問題の場合もある。 しかし、人生に出口のない迷路はない。

 

妻は古希を過ぎてもなおピアノに挑戦している。 子どもが小さかった頃、同級生のお母さんとして知り合い、四十年近くお付き合いのある方を先生にして習っている。 そのお母さんは有名音楽大学の出身で、生涯ピアノを教えたり、演奏会などの伴奏をしてこられた人だ。 その先生はよく妻にこう話すそうだ。 「私は永年ピアノと共に生きてきたけれど、とにかく私が一番学んだことは『辛抱』よ。 ピアニストとして学ぶことも、先生として人に教えることも、どちらも一番大切なのは『辛抱』よ」と、よく繰り返すらしい。

 

妻は冗談半分に「私は主人に四十年間も耐えてきたから、辛抱には自信があるわ」と言ったら、四十年前以降の妻の苦労もよく知っている先生は「それ、それよ。誰にも負けないわね。だから絶対ピアノも出来るわ」と言ったらしい。

 

人は、とてつもない困難に直面し「前途に絶望して道半ばで挫折し、それ以上の継続を断念するかどうか」という判断を迫られることがある。 どちらの道を選んでも、それが人生だ。 異なる道を同時に歩けないから、どちらが良かったかの検証は難しい。

 

しかし、ひとつ確かなことがある。 どんな経過をたどっても、終わりが良ければ、人というものは、たどり着いた「いま」を良かったと受け止められるということだ。 どんな経緯があっても、最後の勝者は、辛抱して歯をくいしばった人である。

 

若い頃、好きなように生きて来た人に限って、古希を迎える頃から過去を悔いる日々を過ごすらしい。 当然の報いである。 こうべを静かに垂れる私を決してののしらないから、私は余計に罪の深さを知る。

 

最近、できなくなってきたことがある。 若い頃の体操の授業でやったトランポリンからの落下事故で痛めた頸椎ヘルニアのせいで、加齢と共に右腕が日々動かしにくくなってきた。 好きなヴァイオリンも弾けなくなってきたし、こうやってキーボードを打つにも人差し指と中指の二本しか使えない。 

 

しかし、今まで思うままにやってきた人生の罰だとしたら、あまりにも軽すぎる。 じわじわと私を苦しめるこの天罰が、むしろ私の気持ちを楽にしてくれる。

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