旅に出ると、必ず心のどこかで必ず小さな「違和感」を覚えるものだ。 それは確かに不快ではあるが、同時に世界が広がる前触れでもある。
さまざまな国を訪れると、まず興味を惹かれるのは料理だ。 どんな味であれ、その土地の人々はそれを一番美味しいと言ってほおばる。 私はエスニック料理好きなので、大概の料理は「美味い!美味い!」と声を上げて食べる。 けれど、すべての人がそうとは限らない。
四十五年前、アメリカに新婚旅行に行った際、サンフランシスコの立派な自宅に招いてくれた老夫婦が、二年後に日本旅行に来られ、今度は狭い2DKの我が家に泊まってくれたことがあった。 美味しい日本の物をたくさん食べていただこうと、こちらも奮発して寿司の「上」をとって一緒に食べることにした。
「まぐろ」や「はまち」は「美味しい」と言って食べていたのだが、突然、奥さんが「ウッ!」と声を出して顔をゆがめ、噛むのをやめた。 あきらかに苦しそうで、今にも泣きだしそうな表情だったので、「出していいですよ」と言って吐き出してもらった。 しめ鯖だった。 確かに、あの酢の強い風味はアメリカ人には刺激が強すぎるのだろう。 お行儀の良いアメリカの年配女性が、人目をはばからずそうせざるを得なかったには、それだけ強い拒絶反応があったからだ。
彼女が日本旅行にどんな印象を持ったかは定かではない。 だが間違いなく人生の最後を飾った楽しい想い出の一頁になったと思う。 そのご主人は、我が家の狭い日本のトイレに感激して、大喜びでトイレの中で写真をたくさん撮っていた。
食べ物に限らず、世界には国ごとに異なった習慣があり、驚かされることも多い。 ミャンマーの「ロンジー」やフィジーの「スルー」は、男性が履く巻きスカートだ。 フィジーでは、ある式典に参加した際、正装である民族衣装のスルーを着たことがあったが、まるで自分が女になったようで、まったく落ち着かなかった。 けれどその姿を現地の仲間に見せてから、彼らが私を仲間としてより近く感じてくれるようになった気がした。 とてもよい経験だった。
(左が「スルー」、右が「ロンジー」)
スルーはベルトを使っているのでまだいい方だ。 ロンジーは腰に巻き付けた大きな風呂敷のような布の端をぐるりとお腹のあたりで大きく結んで固定するだけなので、考えただけで風がス~ス~入り込んできそうだし、下に落ちて脱げてしまいそうで、なんとも不安になる。
しかし、どちらの国でも現地の人たちは当たり前の顔をして、とても居心地良さそうに着ている。
ミャンマーの田舎を旅すると、ひと休みするような小さな食事処にあるトイレは、想像を絶する作りで衛生状態はよくない。 作りが貧素なのは仕方ないとして、旅行者として受け入れがたかったのは、「大」をした後のお尻の処理だ。 ウォッシュレットが当たり前の今の日本は、清潔さと快適さにおいて世界一の水準だ。 昔に戻って紙で拭くのは仕方ないとしても、その紙が見当たらない。
トイレの隅には口の広い陶器の壺が置いてあり、中には水が満たされている。 ひしゃく代わりのカップが浮いている。 その水で洗えということだ。 ただし、壺の中の水は白っぽく濁っていた。 これも現地の人は当たり前のように、気持ちよく使っているに違いない。 トイレまで案内をした人が、外国人である私が驚かずに使えるかどうかまで考えたかどうかはわからない。
(観光客が決して来ないような田舎のトイレ)
あの瞬間、もし私が心に蓋をしていたら、その後に出会ったミャンマーの素朴で優しい素顔にも気づかず、旅を終えてしまったかもしれない。 旅の間に遭遇した違和感をすべて受け入れてきたからこそ、あの旅が今でも忘れられない素晴らしい思い出になっている。
ところで、どちらの国も裸足に抵抗がない人が多い。 ミャンマーは敬虔な仏教徒の国で、寺院の中は石造りやコンクリートの床であろうと土であろうと、必ず裸足にならなければいけないので、生活の中で裸足になる機会が多い。
フィジーで勤めていた時には、近代的なナンディ国際空港ビル内の一室がオフィスだったが、ふと気がつくと地元の従業員が裸足になっていた。 彼らはそのまま駐車場に歩いて行き、車に乗って街に買い物にも行く。 もちろんトイレにもそのままだ。 宗教上の理由はないが、ジャングルの中の小屋が寄り添った集落で暮らしている人が多いので、生活の基本が裸足だからのようだ。
私もあるとき、思い切ってオフィスの中でサンダルを脱いで裸足になってみた。 化粧板を貼ったコンクリートの床がひんやり冷たくて気持ち良く、とても開放的な気持ちになった。 その様子を見た現地の仲間の眼差しが、さらに親しげになったように感じた。 大したことではなくても、文化の違いに違和感を持たないことは、自分の世界を広げる第一歩だと感じた瞬間だった。
どこの国でも、現地の人たちは当たり前の顔で、居心地良さそうにその習慣を生きている。 そんな姿を見るにつけ、自分が生まれ育って来た文化は、世界の中のひとつのスタイルに過ぎないと思う。 違和感は、旅する者の心の中に勝手に生まれるものだ。 それぞれの文化や習慣の違いがあるからこそ、旅は楽しく、思い出に残る。
誰しもが無意識にその違和感を求めて旅をしているはずだ。 それを拒むか受け入れるかは旅人の自由だ。 最初の一歩はいつだって少し怖い。 違和感とは、異文化がそっと心に触れてくる瞬間だ。 そのチャンスを活かすかどうかで、世界がどこまで自分に近くなるかが決まる。
旅が趣味で何度も世界を旅して楽しんでいる人は、普段着のように自由な姿勢で、いかにも優しく異文化に接している。 自から育ってきた文化の障壁を取り去り、違和感を旅の思い出に代える包容力を持っているのが目に見える。 心の器をほんの少し広げるだけで、世界は思いのほか、ぐっと近くに寄ってきてくれる。

