一年前にエッセイを書き始めるまで、私は文章を書くという行為をほとんど経験してこなかった。
自分のホームページには数多くの記事を載せてきたが、それらは技術的事実を整理するための「解説」であり、表現としての文章ではなかった。
しかし、エッセイを何百篇も綴るうちに、文章には他の表現にはない固有の価値があることに気づいた。
それは「推敲」という特権である。
思いついたことをまず書き連ね、そこから心ゆくまで推敲を重ねる。 文章には、書き手が十分に納得するまで磨き続けられるという、他の表現にはない特権がある。 自分の手から離す瞬間まで、考えを整え、濁りを取り除き、言葉の輪郭を研ぎ澄ませることができる。
この「時間を止められる自由」こそ、文章だけが持つ特権だ。
文字を使ってはいるが、「言葉の断片」を伝えるLINEでは、何度も失敗をしたことがある。誤字脱字や漢字の変換の誤りは読み手が経験に基づいて補ってくれるため、大きな問題にはならない。
しかし、言うべきことを言わなかった、言うべきでないことを言ってしまったという内容の誤りは取り返しがつかない。すぐに気がつけば送信取消もできるが、「既読」になってしまった瞬間、言葉はもう自分の手を離れてしまう。
文字に頼らない会話となればなおさらだ。
話し言葉は、考えがまとまる前に外へ出てしまう。一字一句が取り返しのつかない言葉の連続だ。
特に電話は、表情が見えない分だけ言葉の重さが増す。
親しい相手なら問題はないが、久しぶりの相手や緊張感のある関係では、そのとき口にした一言が大きな意味を持つ。
会話の即時性は便利だが、同時に危うさを孕んでいる。
だからこそ、遠くに住む人と心を込めて言葉を交わしたいなら、文章でじっくりと綴ってしっかりと推敲ができる手紙が最適だと思う。
推敲できる時間が、言葉を成熟させてくれる。
文章は、書き手が自分の言葉に責任を持つためのもっとも確かな方法だ。
私は会社員時代の同僚と、四十年来手紙を交わし続けている。
ニ、三ヶ月に一度の書簡が届くと、ゆっくりと何度も読み直す。
情報量は限られているが、だからこそ、そこに書かれた言葉の重みを感じる。
しばらく手元であたためてから返事を書く。
ゆっくりと大切に内容と言葉と選んで文章にする。推敲がしやすいパソコン上のWordの画面上で、時間をかけて磨き上げる。
そうして交わした書簡は、大切な「二人の心のアルバム」だ。
そんなことに気づいたせいか、最近は口で語ることに不安を覚えるようになった。
話し言葉は、考えがまとまる前に外へ出てしまい、的外れなことを口走る危険がある。現代は、LINEやSNSで軽いメッセージを即時に投げ合う風潮が強い。
しかし、言葉を大切にし、自分の書いた言葉に責任を持つためには、推敲できる文章で綴った手紙が最もふさわしい。
昭和の時代、人々が一通の手紙に思いを込めて交換していた文化は、決して懐古ではない。今もこれからの時代にも生かせる、忘れかけたコミュニケーションの形である。