人がどこに住むかという選択は、普遍的な感情ではなく、個人の経験と状況によって大きく揺れ動く。
祖国を選ばない人 ―― 魅力による移住
海外留学や旅行をきっかけに滞在先の文化に惹かれ、そのまま定住してしまう人は少なくない。
彼らにとっては、生まれた国よりも、その土地の空気や価値観のほうが自分に合っていたのだろう。
逆に、日本を訪れた外国人が日本文化に深く魅了され、定住を決意する例も年々増えている。統計的には、逆方向のケースよりも二倍以上多いという。
つまり、国と国の間で互いに「ここに住みたい」と感じる人々が存在する。人間の価値観とは、つくづく面白いものだ。
生まれた祖国を選ばず、異国を人生の舞台として選ぶことは、大きな冒険であり、エキサイティングな生き方に違いない。
祖国を捨てざるを得なかった人 ―― 強制による移動
しかし、祖国との距離は必ずしも「選択」の結果だけではない。
ときにそれは、法的な力によって強制される。
法的追及や逮捕を免れるために海外へ逃亡し、帰国できないまま人生を終える人々も存在する。数としては多くないが、確かに「祖国を捨てざるを得なかった人」がいる。
1970年代の新左翼過激派組織「日本赤軍」の元メンバーであり、テルアビブ空港乱射事件の実行犯として知られる岡本広三は、長い逃亡と亡命生活の末、日本に引き渡されることなく、ベイルートで78歳の生涯を閉じた。
イスラエルで終身刑に服していた彼は、パレスチナ解放戦線との捕虜交換で釈放され、最終的にレバノンへ政治亡命した。日本に帰国すれば国外犯罪で裁かれるため、彼は祖国を捨て、亡命先で人生を終える道を選んだ。
祖国を捨てるという行為は、過去との決別に近い。事情がどうであれ、そこに幸福があるとは考えにくい。
祖国にこだわらない人 ―― 私自身の「移動への欲求」
私は昔から「どこかに定住したい」という感情をほとんど持ったことがない。
生まれ育った郷里にも特別な未練はなく、むしろ「ジプシーのように永遠に棲み家を移しながら、たくさんの経験を積めたらどれほど幸せか」と考えてきた。
会社勤めの頃も「転勤」と聞けば飛び上がって喜んだ。
初任店から大阪支店への異動が決まった二十七歳のとき、私は大はしゃぎで、東京駅まで見送りに来てくれた同僚たちの万歳に送られて新幹線に乗り込んだ。私は「栄転」だと思い、意気揚々に東京を後にした。のちにそれが「左遷」だったと知ったが、長年暮らした東京を離れ、新しい土地へ向かうことの嬉しさが勝っていた。
そういう意味で、その後国際業務分野で働けたことは幸運だった。スペイン留学に始まり、国内外を問わず数多くの出張を経験できたことは、まさに水を得た魚のようだった。
私は日本人でありながら、農耕民族的な定住生活よりも、移動生活のほうに心が安らぐ人間なのだ。
人生のパートナー選びではないのだから、二股も三股もかけて、あれもこれも味わいたい ── そんな欲張りな気持ちが、若い頃の私を支配していた。
移動の終わりと静けさ ―― 成熟の時間
しかし、そんな情熱にも終わりは訪れる。
「もう、あれもこれも味わった」と静かに思える時が、いつか来る。
六十代の終わりに、かつて暮らしたスペインを再訪し、ミャンマーで貴重な自動車で冒険の旅を重ね、最後は南国の島パラオで自然の美しさに目を見張り、これらの国々でタイムラプス作品の撮影も果たしたとき、胸の奥から「もうこれでいい」という思いがこみ上げてきた。
多少の未練はあったが、タイミングよく襲ってきたコロナ騒ぎが、外的な防波堤となってくれた。
世界にはまだ無数の未知があり、私の知らない世界は尽きることがない。
だが、お腹に入る量には限度がある。いつまでもエスニック料理を詰め込むわけにはいかない。歳を重ねれば食べる量は減り、少量の普通の料理で充分になってくる。
今は、結果的に四十年間本拠地となった、埼玉の奥武蔵と奥秩父を控えた静かな田舎都市で、穏やかな日々を送れることに感謝している。
移動の果てに収まった静けさは、若い頃には想像できなかった種類の幸福だ。