この時代に生まれたということ

歴史を遡っていくと、生きていた人たちが悲惨な目にあった時期はいくらでもあった。戦時中に青年期を迎え、徴兵されて無念にも散っていった話は枚挙にいとまがなく、封建時代には国民の大多数が理不尽な貧困生活を強いられたであろう。

 

父は海軍に徴兵され無事に帰還したが、終戦後、それまで信じていた軍事教育がすべて嘘だったと知り、愕然としたそうだ。父はそれをきっかけに「何が真実なのかを知りたい」との思い一心で、大学に戻り経済学を必死に学び、学位をとって経済学博士となり、大学教授として生涯を過ごした。

戦争で真実を見失うという経験がなかったら、もしかしたら平凡な人生を送ったかもしれない。

 

今の時代、目の前では覇権をむき出しに海外進出に走る大国たちの腹立たしい行動を目の当りにすると、今が自分の人生のこれから花開こうとする青春時代でなくてよかったと思わずにはいられない。しかし、子どもや孫たちの人生を思うと、いいも知れぬ未来を危惧する無念が心をよぎる。

自分がこの世に生を得たときと、何処で誰の子として生まれたかの責任は自分にはまったくない。もちろん親にもない。親ですら自分の存在に責任はないからだ。


我々は、この偶然を「運命」として受け入れている。

世界中を旅して、また日本でも各地を旅して、身の周りの無数の人たちの生きざまを見て、見た人の数だけ異なる人生があることに目を見張ってきた。自分は絶対に受け入れられないと思うような境遇に生きている人も無数にいる。

 

私は、自分は本当に恵まれた時代に生きてきたと思っている。日本の歴史の中でも、戦争ですべてを破壊されたゼロから立ち上がり、着実に復興を重ね、実に色鮮やかで幸せと活気に満ちた「昭和の時代」を生きたことは、何にも増して幸せなことであったと思う。

 

輪廻転生が実際にあるのかどうか分からないが、数十万年から数百万年といわれる人類の歴史の中で、ほんの瞬間でしかないこの時代に生まれた理由はなんだったのであろうか。

戦争やテロなど時代の政治情勢の被害者とはならなくても、交通事故や火災、心ない親による幼児殺人事件など、悲劇のさらされる可能性は無数にある中で、この歳まで自分に生きることを許してくれた運命に、その理由を探さずにはいられない。

 

私が感じている違和感は、「自分だけが良い時代に生きてきたことへの倫理的責任」に近いものだ。

つまり、生き延びた者は、「偶然を思想化し、意味を与える責任があるのではないか? 」と問われていると感じてしまうのだ。


人は、いつ、どこで、どの親のもとに生まれるか、そしてどのような歴史状況に置かれるか ―― これらを選べない。

しかし、「どう生きるか」は選べる。

 

それは私の人生の中ではいつも真剣に考えて生きてきたテーマだ。

それが今の幸せにつながっているとすれば、残された問いは、「偶然に与えられた幸福を、どのように未来へ手渡すべきか」ということになる。

 

私には、それらを自分の歩んできた足跡として残すことしかできない。

それがなんらかの形で周囲の人に読み取られ、未来へ手渡す一助になればいいいと思っている。

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