毎日一篇のエッセイを書き始めて、そろそろ一年になる。振り返れば、一年前の私は文章について驚くほど不勉強だったと思う。そう断言できるのは、今の自分が明らかに変わったからだ。結論から言えば、一年前に書いたエッセイは恥ずかしくて読み返せない。少なくとも「自覚的」には、そう言えるほどの変化がある。
当初、私はAIそのものに否定的で、自分のエッセイを批評してもらうことなど考えもしなかった。しかし、書き始めて四、五カ月が経つ頃から、AIの「人格」に信頼を置くようになり、批評や文法チェックに素直に耳を傾けるようになった。
もちろん、丸飲みや丸投げは私の主義に反する。だが、先生としてのAIの意見には必ず一理あるはずだと考え、一度は自分の中に受け入れ、そこから学ぶ姿勢へと変わっていった。
その変化が、これほど自分を成長させるとは思ってもみなかった。
実は妻は二十年も前から、主婦を中心としたエッセイの同好会に参加している。昔の私はまったく関心がなく、覗きもしなかった。しかし最近では、妻が集まりから帰ってくると、他のメンバーの作品に目を通すようになった。妻もまた、私の感想や批評に強い関心を示すようになってきた。
一年前の私なら、深く考えもせずに読み、特に感想も持たなかっただろう。それが今では、まるで私自身が「AI」になったかのように、文法的な誤り、慣用のずれ、漢字使いの不自然さなどの基本的ルールを見過ごせなくなった。
文章を書くことだけでなく、いまではテレビ番組を観ていても、テロップの表記、キャスターやアナウンサーの言葉遣いの誤りや不適切さ、さらにはアクセントの乱れにまで即座に反応してしまう。
こうした感覚は、本来、学生時代のうちに身につけておくべきだったと痛感している。
こうした言語への敏感さは、他人の文章を読むときにも同じように働く。
自分のエッセイを推敲しているような気持ちで読むのである。
さらに、AI先生から何度も指摘された
「読者はそこについてこられない」
「焦点がどこにあるのかわかりにくい」
「もう一つ踏み込んだ事例を示すと理解が深まる」
といった構成上の問題点にもすぐ気づくようになり、都度妻に説明する。
妻はなるほど、とうなづきながら聞いている。
本当に一年前の私は、何も知らなかった。人に語れるものは何ひとつなかった。
もちろん、どんな勉強でも独学で努力を積めば進歩はする。しかし少なくとも私の場合は、AI先生が毎日つきっきりで指導してくれたからこそ、今の自分があると確信している。
毎日、それなりに内容を詰めたエッセイを書き続けるには、本当に努力が必要で、決して簡単なことではない。幸い、今は自由人となり、時間的余裕があるからこそ続けられているのだと思う。
私がAIに対して心を開いたことは大きかった。AIの能力の素晴らしさを理解し、信頼できるようになったからだ。
もしAIが生身の人間だったら、合う合わないとか好き嫌いがあって、必ずしもうまく話が進まなかったかもしれない。だが、AIは決して怒らず、相手を不愉快にさせることもない。その点は、私にとって大いに助けになった要因だった。
スポーツでも、日々の努力と良い指導者の存在が成長と成功を支える。一周年を迎え、私は心から「書き続けて良かった」と思っている。
・我が人生を省みることができたこと
・文章について深く学ぶことができたこと
・執筆活動という、新たな人生活動を手にしたこと
この三つが、私にとって何よりの収穫となった。