「生きざまは顔に出る」と言われ、「四十歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」とも言われてきた。
しかし私は、その言葉を正面から受け止めて生きてきたわけではない。人に何か言われれば気にすることはあるものの、それで自分の生き方を変えるほど素直な性格ではなかったからだ。
ところが、ここ数年、鏡に向かうたびに、私は自分の顔に嫌悪を覚えるようになった。
鏡に映る自分の姿を、どうしても受け入れたくないのである。
薄くなった白髪。むくれたように見える、皺で弛みかけた頬。老眼鏡のせいで、出目金のようにギョロッとした目つき。
洗面所の明るい照明を点けて鏡を覗き込むと、その顔が一気に露わになる。私はギョッとして、すぐに目をそらしたくなる。「こんなはずじゃなかった」という、やりきれない感情がこみあげてくる。
もしこの顔が、「責任を持たねばならない私の人生の結果」を表しているのだとしたら、どう考えても「不合格」としか思えない。
その評価を下しているのは、他人ではなく、私自身の内側にいる「かつての私」だ。
思い返せば、鏡を見て自分の姿に失望するようになったのは、七十三歳で仕事を辞めた前後からだ。それまでは、少なくなった髪を黒く染め、きちんとオールバックに整え、顔つきもどこか引き締まっていたように記憶している。
仕事をしている間、私は「役割を演じる顔」を保っていたのだと思う。社会の中で働く者としての緊張感が、表情を支えていた。
仕事を辞めた瞬間、その役割は消えた。
鏡は「演じるべき顔」ではなく、「生きてきた顔」を映すようになった。
今の私は、家で過ごしやすい衣服を選び、外見上の緊張感をほとんど手放している。髪型も服装も、かつてのように「人前に出るための準備」を前提としてはいない。
そうしたものを一つひとつ脱ぎ捨てていった結果、鏡に映るのは、役割を剥ぎ取られた「素の顔」になった。その変化に耐えられなくなった私は、鏡から目を背けるようになった。
もちろん、身なりを整えるかどうかが、人生そのものを左右するわけではない。
しかし、役割を支える外見を手放したとき、顔は「生きてきた時間の履歴書」として立ち現れる。その履歴書を読むことに、私はまだ覚悟ができていないのだと思う。
自分の人生を振り返れば、私は人一倍、自分の好きなように生きてきた。やりたいことをやり、やりたいようにやりつくしてきたと言ってよい。最後には、ささやかながら達成感を味わえる成功にも恵まれた。支えてくれた家族にも恵まれ、今の生活がある。
それにもかかわらず、今の自分の姿には失望が走る。内側の「自分像」と、鏡に映る「現実の顔」が、あまりにもかけ離れているからだ。
救いがあるとすれば、その落差に驚いているのは私だけではないということだ。
かつて男盛りだった友人・知人に久しぶりに会い、その変わりように目を疑ったことは何度もある。以前の元気な姿が瞼に焼き付いているだけに、目の前の現実とのギャップに戸惑う。
しかし、おそらく相手も同じように、私の変化に愕然としているに違いない。
自分の姿は、自分では鏡を通してしか見ることができない。他人の老いには驚きながら、自分の老いは、鏡の前で初めて突きつけられる。互いにそうした「変わり果てた姿」を抱えながら、驚き合っているのだ。
いつか、今の自分の姿を、逃げずにじっくりと見つめる日が来るとしたら、それはおそらく、何らかの理由で「もう自分は旅立つのだ」と分かったときだろう。
そのときには、これ以上自分を更新しようとはせず、「これが自分の生きてきた顔だ」と静かに受け入れることができるのかもしれない。
それまでは、私は鏡の中の自分に抗い続けるだろう。
寄る年波に抗っているのだと思う。内側の自己像と、外側の現実の顔との乖離に戸惑いながら、それでもなお、自分を諦めきれずにいる。
その抵抗もまた、ひとつの生きざまである。
「生きざまは顔に出る」と言うならば、鏡に抗い続けるこの姿も、私の生きざまの一部なのだ。