性善説と性悪説
人間の本性をめぐる古典的な議論には、「人は生まれながらにして善性を持っている」という性善説と、「人は生まれながらにして利己的である」とする性悪説がある。
性善説は、「もともと人間は善なのに、善が失われるのは生きている社会環境によるものだ。だから環境を正さなければならない。」と考える。
性悪説は、「もともと人間は欲望に支配された未熟なものだ。だから礼儀や法律、教育によって欲望を矯正しなければならない。」と考える。
どちらの説も、ゆっくり考えればそれぞれに理があり、考えれば考えるほど、どちらが真実なのかと頭が混乱する。
私にとっては、「鶏が先か、卵が先か」の議論にも似て聞こえる。
ちまたに溢れる、偽善者たち
道を歩けば、タバコの吸い殻、カップ麺の容器、空き缶、ペットボトルが人陰や物陰に大量に投棄されている。こうした行為をする人間は決して特別ではなく、普段は善人の顔をして平然と生活している。
ゴミを拾いながら、彼らはいったいどんな顔でこれを捨てたのだろうと想像すると、そこには「利己主義に生きる情けない人間」の姿が浮かぶ。しかし同時に、「もともとは善性を持っていたが、社会生活のストレスや不満が人柄を歪めたのかもしれない」と考えれば、それもあり得ない話でもないような気がする。
人間に潜む「共感性」
しかし、どんな人も、自分の目のまえで突然人が倒れていたら決して無視して通り過ぎることはないだろう。その反射的行動は性善説の裏付けのようにも見えるが、どのような生き方をしてきた人にも必ず備わっている本能に近い反応だ。
それは人間が持っている、隠れた「共感性」と考えるのが自然である。
「鬼の目にも涙」ということわざが、悪人の胸の奥に残る「情(魂)」を表している。
西洋でも「悪人の中にも、一粒の善なる種がある」という言葉がシェイクスピアの戯曲に出てくる。
性善説と性悪説のどちらが正しいのか、はっきりとした結論は出していないが、世の中の仕組みは両方の考え方をモデルにして対応している。
世の中では、道徳的、倫理的には「人間の可能性や善意を信じる」性善説のスタンスがとられている。
しかし同時に、構築されるさまざまな制度設計やシステム構築においては「人間が悪意の行動やミスを起こす」という性悪説を前提とした、防御・回避システムを備えている。
この二段構えで、社会を安定させるための現実的な対応がとられている。
未完成という捉え方の否定
こういった様々な状況を踏まえ、「人間は善でも悪でもなく『未完成』として生まれ、社会的学習によって善にも悪にも向かう」という考え方が一般的とされている。
ただ私は、すべての現象を説明するのにより自然な方法は、まず性悪説に立つことではないかと考えている。動物と同じように「利己的」な存在として生まれているが、そんな心の中に隠れた「共感性」を持っているところが「人間らしさ」なのだと思っている。
子どもは本来「善」と言われるが、幼児が自分の欲望をそのまま表して満たされなければ怒るし泣く。それは「未完成」と捉えるより「人間の本性」と捉え、それが育っていく過程の教育や体験で徐々に善を学んで身に付けていくと考えた方が自然に思える。
性悪説に立つということ
人類の長い歴史を振り返っても、太古の昔から地球上どこの世界でも、常に社会には欲に飢えた人間が支配者となって富を独占してきた。人類は延々と戦争や衝突を繰り返して来て、今も世界には戦火が途絶えることはない。
その狂った指導者たちの姿を見ていると、どうしても「善性」をもって生まれたとは思えない。
「生きている社会環境が悪いから善性を失った」と説明するにはかなり無理がある。
性悪説に立って毎日犯罪の報道に溢れるニュースを見ていれば、そこには驚きも失望もない。 やはり「期待をしなければ驚きも失望もない」のだ。
その上で、なんとか世の中が平和で幸せに穏やかな暮らしができるように、心ある人たちが知恵を絞って世の中をリードできる仕組みを作っていかなければならないと、改めて強く思っている。