「Life’s but a walking shadow」(人生は歩き回る影に過ぎない) ―― 人生には実態がなく、人間は影のように消えゆく存在だ。
「All the world’s a stage」(この世界は舞台である) ―― 男も女もただの役者にすぎない。
これはシェイクスピアが作品の中で語った、人生観を象徴する良く知られたひとことである。
彼の作品群には、「人生は確かな実体を持たない、影や夢のようなものだ」という感覚が繰り返し現れる。
そのため後世の批評家たちは、その思想を「Life was but a dream(人生はただの夢だった)」と要約することがある。
私は、この思想をある映画で知ったとき、自分の意識の深層に沈んでいた思いが光に触れて共鳴し、人生というものの儚さをめぐる自分自身の感覚が、静かに言語化されながら形を帯びていくのを感じた。
もし若い頃にこれらの言葉に出逢っていたら、気にも留めずにやり過ごしていたと思う。
目の前のものに夢中になっているときは、その姿が刹那のものなのか、しっかりと後を残していくものなのか、見えないし見ようともしない。
舞台で踊ることに夢中になっている役者は、演じている役柄になり切っていて、自分が芝居をしているとは考えない。
しかし歳を重ねた今は違う。
今、思い出深い過去の自分が通ってきた一時代を思い起こすと、思い起こすたびに距離が離れていくことを感じる。
記憶も薄れるが、その舞台を飾っていた風景がもはや消え去っていることも大きい。
駅や道路や立ち並ぶビルディングや走る車、すべての大道具たちがすでに用済みとなって撤去されている。
あのとき自分が立っていた周りのシーンを作っていたものが夢のように消え去り、新しい舞台装置が飾られ、その舞台は新しい若い役者で賑わっている。
昔のシーンを知る人はいなく、ただ自分だけが記憶の中に持っている。その状態は、「夢」と何も変わらない。
私のように自己中心的な生き方をしてきて、歳をとってから自分が過去に犯して来た過ちの大きさを感じる人間は、日増しに悔いる思いが強くなる。
悔いが強まるほど、過去の自分を同じ肉体に宿る「同一の本体」として受け入れることが辛く難しくなる。
そのため、次第に過去の自分の姿が遠くなり、いつの間にか「あれは夢ではなかったか」と思うようになる。
心の底で静かに募っていく「すべてが夢であってほしい」という願望が、その思いに拍車をかけている。
しかし、それは悔いる思いだけではない。
楽しく幸せで温かい人生の宝のような思い出もまた、現実の世界から遠のいていき、夢の中の出来事のように思えてくる。
すべてが「人生物語という舞台」で繰り広げられた夢であり、いま自分はその夢から目覚め、観客がいなくなった客席で、幕が下りた舞台を前にしているような気持ちになる。
私はシェイクスピアの哲学は、私の姿を見事に説明しているように思える。
これが老人の感傷と錯覚であるのなら、それはそれでいい。
ならば、命ある限り生きていくこれからの人生という舞台を前にして、何と自分に言い聞かせるべきなのか。
人生のすべてが夢ならば、これからどんな夢の続きをみたらよいのか。
目の前で演じられた夢をつぶさに振り返ってきた私には
その答えが分かっている。