怒りと正義 ―― 価値の優先順位が社会を分断する

これだけ多くの人が獰猛なクマの被害に遭い命を落としているにもかかわらず、人里に下りて民家に潜んだクマを、緊急銃猟で駆除した自治体に罵声を浴びせる人が何人もいる。

そんなニュースを見て、人間社会はそうした人々も含めて構成されているという事実に、改めて失望を覚える。

「非難した自分自身が被害者になってもいいのか」という、子どもでも理解できるほど単純な理屈を受け入れられない人が存在するのだ。

 

私には、「害獣」であることが明白なクマは徹底して駆除すべきだという強い思いがあるため、なおさらそう感じるのかもしれない。しかし世の中には、失望させられる出来事は挙げればきりがないほどある。

 

政治のようにイデオロギーが絡む領域では、そもそも物事は善悪に分けられない。したがって、すべての人が満足する「解」は最初から存在していない。

失望に出逢うことは、むしろ当然の世界だ。

 

社会生活というものはストレスの塊であり、自分の正義が正義とみなされない状況に妥協して生きていかなければならないのだから、誠に不条理な営みである。

 

若いうちは、とかく自分の正義に固執する。意見を戦わせ、議論を拒まない。自分が「間違い」と思う価値基準を相手に許さない。

世の中は正しくなければならず、正義の逸脱は許さない。

その典型例として、かつての学生運動が挙げられる。

 

人間は成長するにつれ、他人の価値観の違いを社会構成の前提条件として認めるようになる。しかし社会の中で突出した権力を得ると、かつて認めていた寛容性は姿を潜め、自分の正義感を振り回すようになる。その延長線上に、今も世界各地で続く地域紛争や戦争がある。


正義は「何が善か」という絶対的な価値観のように見えるが、必ずしもそうではない。 「何を優先するか」という価値の優先順位の問題でもある。

 

・安全を優先する人は「害獣は駆除すべき」という正義を持つ

・動物保護を優先する人は「クマを殺すな」という正義を持つ

・経済を優先する人は「予算を使うな」という正義を持つ

 

だから、価値そのものを議論し合っても結論に収束しない。つまり、正義はそれを導く「価値の順位」が作るものだという視点を持てば、いかに多様性をもった道徳的価値規準であるかが分かる。


そして、この「複数の正義が併存する」という状況は、権力の有無によってまったく異なる意味を持つ。権力を持たない個人の正義は、あくまで一価値観に過ぎないが、権力を持つ者の正義は社会制度として実行されてしまう。

 

身近な話で例えるのなら、私が「クマは害獣なのだから駆除すべし」と考えるのは、一個人の正義感や価値観に過ぎない。しかし、仮に日本の総理大臣がアメリカの大統領並みの権限を与えられ、さらにその立場に私が就いていたとしたら、害獣は害虫と同じように人間の行動が及ぶすべての世界から駆除すべしとして、私は自分の正義を貫いてしまうかもしれない。

 

結局正義は複数存在し、権力のない者は不満をぶつけ合い、権力のある者が自分の正義を通す。「世の中の正義というものは、絶対にひとつだけではないし、永遠にひとつにはなれない」

 

自分の正義は対外的にはほとんど力を得ない。そう頭に叩き込み、諦めて生きるしかないのだ。

しかし、ニュースを伝えるテレビに向かって声を上げ、不満をぶつけているようでは、私には人生の「学習効果」が機能しているとは言えない。

 

諦めれば、「これが社会に生きるということだ」と腹も立たなくなるのだが、

悟り切れない自分が、なお心を搔き乱している。

 

 

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