SNSが選挙の結果を左右する時代になった。 人々はSNSの情報を次々と転送し、SNS自体もその転送情報を再転送している。 またWeb上の記事を引用したり、それをSNSで紹介したりする人も多い。
私は、SNSを情報源として利用したことはない。 Web上の情報に目を通す事はあるが、必ず出典を確認し、鵜呑みしないように距離を置いて読むようにしている。
LINEでやりとりしている友人の中には、頻繁にSNSやネット情報を転送してくる人がいる。 内容に共感しているから転送してくるのだろうが、私はできれば、その人自身の言葉で、その人自身の考えを聞きたいと思っている。
道端で初めて出会った人がその場で話した情報を、そのまま信じてしまう人はいないはずだ。 だが、SNSやネットの情報は、なぜそのまま信じてしまう人が多いのだろうか。 実際、その隙を突く悪意ある人間が「フェイク動画」を流し、善意の人たちを翻弄し混乱させているのが現状だ。
もちろん、ネット上には客観的で重要な情報も多く存在する。 ただし「玉石混交」である。 まず、発信者と情報源が明確であることを確認できなければ、判断は難しい。 その意味では、テレビや新聞などの情報は比較的信頼度が高い。 とはいえ新聞にも社ごとの思想が反映され、完全に客観的とは言えない。 しかし複数のメディアに触れていれば、その偏りはある程度回避できる。 民主主義の日本に信頼度が高いメディアが存在していることは、実に幸せなことだ。
「コピペ」情報の転送は、現代の情報伝達の特徴的な形態であり、日本に限らず世界的な傾向でもある。 SNSに氾濫するショート動画は、この傾向にさらに拍車をかけている。 じっくりと長い記事を読んだり、長い動画や写真を落ち着いて見る人は少ない。 多くの人が、スマホで手軽に次々とショート動画や短い記事を楽しんでいる。
自分自身で意見を持つより、他人に同調した方が心強いと感じる人もいるだろう。 「誰かの言葉を借りることで安心したい」という人もいる。 「転送する」という行為で、自分を表現しているつもりなのかもしれない。 それがいまの時代の潮流であり、常識なのだろう。
この動きについていけない私はかなり時代遅れなのかもしれない。 私は滅多にコピペをはしない。 というより、できない。 私は「他人の表現のコピペで説明できない、独自の表現で語りたい」という気負いがあるからだ。 そうでなければ、自分が生きている意味も価値もないと感じてしまう。
私が「自分」にこだわるようになったのは、三十代初めのスペイン留学の経験が大きい。 敗戦後の高度経済成長期の日本では、一般的な価値観としてアメリカへの羨望と尊敬があった。 私も幼い頃からアメリカに憧れていた。 しかしスペインでの生活は、その価値観を根底から覆し、ラテン文化こそが自分の生きる世界だと感じる自己革命の経験となった。
日本に興味深々の学生たちに、私はよく日本の話をした。 彼らがすっかり聞き入っているように見えたとき、私は「どうだ、日本に住みたいだろう?」と尋ねた。 ところが彼らは一斉に肩をすくめ、「冗談じゃない。とんでもない。日本には『人生と言う暮らし』がない」と言った。
私は後ろからハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。 その瞬間から、「自分の体験で得た、自分独自の価値観を大切にしなければ、また同じような誤解をしてしまう」と考えるようになったのだ。
他人の言葉を借りることと、自分の言葉で語ることは違う。 人生経験が滲み出る自分の言葉は、いわば「自分の存在証明」でもある。 お祝いの気持ちを伝えるとき、「おめでとう」と描かれたスタンプを送られればもちろん嬉しい。 しかし、自分の言葉でお祝いの気持ちを書いてくれたなら、その温もりは比べものにならず、忘れられない思い出になる。
政治の話をするときも、他人が書いた記事を転送するのではなく、たとえ自信がない部分があっても、そう断った上で自分の言葉で語ってくれたら、私はその人の存在にぐっと近づける気がする。
その人の言葉で綴られた情報に接すると、まず私の頭の中にはその人の姿が
浮かぶ。 そしてその人が語る一言一言は、知らない誰かが語った言葉とはまったく違う響きを持ち、私の心の中に入り込む強さと説得力がある。
ただ、自分の言葉で語ることは、世間の評価の土俵に乗せられるという責任と孤独が伴う。 逆に言えば、他人の言葉を借りるという行為には「孤独を埋める」という側面があるのかもしれない。
いずれにしろ、世の中に伝わる情報には昔から偽情報も含まれている。 だから最後の砦は、一人ひとりの判断力だ。 いまは情報を簡単に得ることができる。 だからこそ、扱い方に責任が必要になる。 私は、自分の言葉に責任を持ち、自分の言葉で自分を表現し情報を発信していきたいと思っている。