自分と向き合うエッセイの力

70歳を超えるこんな歳になるまで、私は自分と向き合った事は一度もなかった。 今から思えば向き合うべき時は何度もあったと思うが、そんな事より目の前の事に夢中だったし、その必要性も感じなかったからだろう。 毎度馬鹿ばかしい取って付けたような行為だと思っていたに違いない。

 

仕事もやめて自由な時間一杯の毎日となったが、かと言ってもう昔の様に趣味にうつつを抜かして爆走する気はない、となれば必然的に考える時間、物思いに耽る時間が増えるようになった。 そして仕事や趣味でいつも目の前の事ばかり見て走り続けて来た世界から、その必要がなくなった世界に入ると、必然的に過ぎ去った過去を振り返る様になる。

 

好き勝手に生きて来た私の場合は、まず省みる点があちらこちらに見えて来る。 そして一旦こう言うモードに入ると、否が応にも思い出される事がたくさん出てくる。

 

自分の過去を詳細にわたって思い起こして、何故そのような事が起きたのか、その背景や経緯を考える事は簡単ではない。 人間は目の前にある事についてあれこれ考えるのは対応できるのだが、脳の記憶領域から過去の詳細について様々な情報を呼び出しながら脳の別の領域でそれらを組み立てたり評価しようとするのは結構面倒な事だ。

 

私はこのエッセイ書きを始めて一番良かったなと感じているのは、しっかりと自分と向き合えるようになった事だ。 これは最初まったく期待しなかった事で、自分でも大変驚いている。

 

例えばひとつの自分の過去のテーマについてエッセイをまとめようとすると、頭の中で凄いエネルギーを消費しているのを感じる。 脳みその中で血流と血流がぶつかりあって、なんとか答えを導きだそうとエネルギーが燃焼しているのを感じる。 このエネルギー操作は目をつぶって頭の中で行っているのではない。 頭の中だけで行うのにはかなりの集中力が必要だ。 効率良くエネルギーを闘わせる事ができる現場は、紙の上、私の場合はパソコンの画面の上の文字だ。

 

パソコンの文字書きの標準的プラットフォームであるWordの白い背景画面の上に書いていく文字を、自分が見やすいフォントとズーム比率に拡大して戦わせるのである。 あたかもWordの画面が自分の脳みその画面だと言う感じだ。

 

文字で書くと、書いた文字は消えずに残っている。次から次に文字と言うパーツを並べて残してく行く。 そしてそのパーツは、単語、パラグラフ(段落)、と言う構成単位として構造的に組み立てられて行く。 書いたものがそこに残っていると言う事がポイントだ。 人間の一時記憶領域(パソコンのメモリーに相当)で目をつぶって考えた時の様に都度消えて行かないので、どんどん組み立てられて論理構成が成長して行く。

 

まぁ、こんな理屈はともかく、要は書く事によって自分が頭の中で考えて来た事、考えている事が正確に浮き彫りになり、把握する事ができるのだ。

 

振り返ると、エッセイで書いたテーマの数だけ、色々な切り口で自分と向き合う事ができたようだ。 最初は全くそうなっている事に気付かなかったが、折に触れ、人と色々な話をしている時に、以前にエッセイで書いた事、すなわちその時向かい合って見出した自分の真の姿に関した話題になった時に、明確に、順序立てて、清々と、論理的に、冷静に、話が出来たと言う機会に何回か出会った。

 

これは自分と向き合ってなかったら、すぐには適切な答えが思いつかず、的外れで不十分な話しかできなかったと思う。 エッセイを書く事は自分と向き合う事ができると言う事に気が付いたのである。 もちろんエッセイにはいろいろなテーマを採り上げたものがあるので、全てが作者自身を振り返ったり向き合ったりした物ではないかもしれない。 私がそう言うテーマやスタンスで書いていると言う事だ。

 

これは本当に驚きの発見だった。 「これなんだ!」と感激もした。 毎日必死になって書き続けているのは自分と向き合う為だったんだと実感した。 それは好き勝手に生きて来た私に今一番必要な事なのだ。 そしてそうやって書いた物が、万が一でも読まれている方の何かの参考になれば嬉しいと言う思いが、このnoteでの私の小さな活動のコンセプトになるのだと思う。

 

 

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