私は大の天文ファンである。かつては天体観測だけでなく、天文物理学にも惹かれ、素人の及ぶ範囲内ではあったが、その真理を探ろうとした時期もあった。
星空を仰いでいるときは、地球上で起こっているさまざまな不快な出来事が頭の中から消え去り、自分ひとりが宇宙に飛び出したような気持ちになる。
そうだ、自分はこんなにも美しい夢のような世界にいるのだと感じる。そして、いつもの生活のほうが夢で、今この瞬間こそが現実なのではないかという錯覚にさえ陥るのである。
近年、宇宙物理学は目覚ましい進展を遂げている。私が宇宙を学ぼうとしていた六十年前の中学生時代に知られていた世界とは、まるで次元が異なるレベルまで多くのことが解明されている。
その進展を支えているのが、理論と観測技術の発達である。素人には到底理解ができないような理論も多いが、計算や観測、実験によって「見えないもの」までが次々に解き明かされている。
二十世紀の宇宙観測の主役の一つは、光をはじめとする電磁波だった。
やや専門的な話になるが、私たちの目に見える光は電磁波の一部にすぎない。
宇宙からは、電波、赤外線、X線、ガンマ線など、目には見えないさまざまな電磁波が届いており、それらも観測に利用されている。
天文台の巨大望遠鏡だけでなく、大きなパラボラアンテナで電波を捉える観測によっても数多くの発見がなされた。いわゆる電波天文学である。
そして、二十一世紀には、電磁波に加えて、「重力波」や「ニュートリノ」も宇宙を探る新たな手段となっている。
我々の日常生活とはほとんど接点のない素粒子物理学の世界となると、その内容を理解することはますます難しくなる。
しかし、そうした新しい観測手段や物理現象の発見によって、宇宙が誕生してからどのように現在の姿へと至ったのか、その過程が以前よりも鮮明に見え始めているのである。
物理学者や天文学者が次々に明らかにしていく宇宙の真実は、地球という小さな星で人類が抱えるさまざまな矛盾や争いが、宇宙規模で眺めればいかに些細なものであるかを改めて考えさせる。
だが、そのような宇宙へ思いを巡らせる人は決して多くない。
生活に困窮している人には、星の瞬きの持つ意味を考える余裕はないだろう。富や権力を手にした人々であっても、多くは現実の欲望や利害の中で生きている。
私は幼い頃から宇宙に心を奪われて生きてきた人間なので、折に触れて空を見上げ、空想にふける時間を持ってきた。
例えば、天気のよい日の「昼間」でも、青空を見上げると私はその向こう側に星々が広がる宇宙を思うことがある。
空が青く明るくて星々が見えないのは、地球に大気があり、太陽光が散乱しているからである。
大気の存在は、私たちに宇宙の本来の姿を見えにくくしている。
アポロ計画で月面着陸をしたときの映像が示すように、頭上に太陽が輝いていても、大気がなければ空は真っ黒だ。
昼間の空の向こうにも無数の星々が輝いており、私たちはいつも宇宙の中にポツンと存在しているのである。
青空と地表の間に挟まれた、あまりにも薄いミカンの皮のような世界だけを見つめ、その中で欲望をさらけ出し、自分だけの幸せを求めながら生涯を終えていく人間の姿に、私はどこか悲しさを感じる。
上を向き、地球を飛び出した視点から見える宇宙と、このミカンの皮の世界を見比べると、言葉にしがたい思いがこみ上げてくる。
もちろん、見上げたところで、自分が生きる世界そのものが変わるわけではない。
それでも、見上げることなくそのまま朽ち果てていくのは、あまりにも悲しく虚しい気がする。
その答えのない問いを抱えたまま、私は今日も空を見上げている。