人はなぜSNSの偽情報に惹かれるのか

いつもSNSに張り付いている友人が、そのとき愛知・名古屋で開催中であった「第20回アジア競技大会(アジア大会)」について、LINEでこんなメッセージを送ってきた。

 

「中国企業が運営して、凄いことになっている様な話を聞いた。設営工事も中国企業でトラブル多数。台湾国旗に日章旗はNGとか、台湾虐め。韓国選手への韓国国歌でなく、北朝鮮の国歌が開場で流れたとか、世界へ向けて日本に恥をかかせるような工作されていますよね。」

 

少なくとも、そのすべてが事実とは思えなかった。


大会では、数々のトラブルや問題が発生したことは事実として報道されている。

特に韓国戦で北朝鮮の国歌が誤って流されてしまったのは事実で、組織員会が韓国側に謝罪する事態になったようだ。

 

しかし、大会が終了し、様々な事実が明らかになってきた今、SNSで騒ぎとなったことの中には明らかな誤り、不正確な表現、根拠のない推測が含まれていることが分かっている。

 

今回に限らず、SNSや動画サイトでは様々な情報が、十分な検証を経ないまま拡散されることがある。今回の話も、その延長線上にあったように思われる。


私はSNSのセンセーショナルな投稿やショート動画をほとんど見ない。しかし、多方面で偽情報が出回っていることが話題になっても、その人気は衰えないようだ。

 

熊本地震の際には、災害直後の混乱に乗じて誤情報や悪質なデマがSNS上で急速に拡散し、大きな社会問題となったことも記憶に新しい。

 

見ないようにはしていても、パソコンを操作していて何かの拍子にSNS画面へ誘導されることがある。私は意図的な誘惑性を強く感じるものに目を奪われたくないので、そのたびに慌てて閉じようとするのだが、ほんの数秒の間にも動画は再生される。

 

「アイキャッチ」という言葉はよくできていると思う。

 

一瞬で人の視線を奪うために作られた映像は、「何だこれは?」と思わせる力を持っている。私は本をパタンと閉じるようにウインドウを消すが、大人ですらそう感じるのだから、子どもや青少年が目を奪われないはずがない。

 

不思議なのは、SNSの不正確さやフェイク情報の問題がこれほど指摘されているにもかかわらず、その人気が衰える気配を見せないことである。

 

電車に乗ると、多くの人がスマートフォンの画面を見つめている。その光景を見るたびに、私は人間の心の働きについて考えてしまう。

 

偽情報が広がる理由は、人々が愚かだからではない。

人間には、真実かどうかを確かめる前に「知りたい」「見てみたい」と思う本能的な好奇心が備わっている。

 

私にも好奇心がないわけではない。しかしSNSは人の好奇心や不安、怒り、機体を巧みに刺激するように作られている。だからこそ私は意識的に距離を置いている。

 

「中国の陰謀だ」

「日本が侮辱された」

「政府が隠している」

 

そうした言葉は、事実であるかどうかより先に感情を動かす。

 

もともと不安や不満を抱いている話題であればなおさらだ。怒りや恐れは強い関心を呼び起こす。そして同じ情報を共有する人々が集まれば、そこには仲間意識や安心感も生まれる。

 

人は情報だけを求めているのではない。同じ情報を信じる人々とのつながりを求めているのかもしれない。


歴史を振り返ると、人間は昔から集団の感情に引き寄せられてきた

 

第一次世界大戦前夜のヨーロッパにも平和を訴える人々は存在した。しかし国家的な熱狂が拡がると、その声は社会の中に埋もれていった。

後から振り返れば正しかった意見であっても、その時代の空気そのものを止めることはできなかった。

 

もちろんSNSの問題と世界大戦を同列に語るつもりはない。

 

ただ、人間が理性だけで行動する存在ではないことを示す一例として、私には重なって見えるのである。

 

世の中全体が大きな流れに包まれているとき、一人や二人が警鐘を鳴らしたところで、その流れを変えることは難しい。

 

電車の中で、多くの人が無言でスマートフォンを見つめている。

その画面を流れている情報のどこまでが真実なのか、当の本人にもわからないかもしれない。

それでも人は次の動画へ指を滑らせ、次の情報を求め続ける。

 

私には、その姿が単に情報を求めているというより、何かに驚き、何かに怒り、何かに共感し、自分の心を動かしてくれるものを求めているように見える。

 

そうした理屈だけでは割り切れない心理こそが、人間らしさを端的に表しているように思える。

 

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