世界はいま、国家レベルでの利己主義化という構造変化のただ中にある。
米国は従来の国際秩序の維持役を放棄し、右傾化と排外主義を強め、国境に壁を築き、移民の流入をかつてないほど拒絶している。かつて「自由と寛容」の象徴であった国家が、権威主義的な独裁国家へと傾斜しつつある姿は、世界の均衡を大きく揺るがしている。
EUでも同じ構造が進行している。
私がかつて滞在していたスペインでは、アフリカ大陸の飛び地である領土セウタに向けて隣接するモロッコ側から海岸伝いに泳いで大量の移民が押し寄せ、すでに受け容れ能力を超えて大混乱が生じている。
イタリアには対岸リビアから大量の移民がボートで押し寄せている。
イギリスには、最終目的地として対岸フランスからドーバー海峡をボートで渡ってくるアフリカや南アジア系の人々が押し寄せている。
中東・アフリカの紛争や経済危機により祖国を捨てた移民たちの流入が続き、それがEUの右傾化に拍車をかけている。
ロシアや中国といった権威主義国家は、もともと「自国第一」という利己主義を貫いてきた。
イデオロギーの左右を問わず、世界の国家は自らの利益を最優先する方向へと収斂しつつある。
この延長線上に見え隠れするのは、世界大戦という最大の悲劇である。
核兵器を保有する国が複数存在する現代において、「地球滅亡」いうSF的シナリオは、もはや空想とは言い切れず、遠いながらも現実の地平の彼方に姿を覗かせ始めている。
尽きることのない欲望に振り回される人間という生き物は、何度歴史が繰り返しても「学ぶ」ということができない愚かな存在だ。
愚かさとは、判断が欲望に支配され、目の前の複雑な因果関係を理解できないという知的限界でもある。
もちろん、すべての人間が愚かなわけではない、少なくともこうして「愚かだ」と批判し否定する人間は無数にいる。しかし、自分が愚かであることにさえ気がつかない人間もまた無数にいる。
人間は同じような身体と顔を持ち、社会的には平等に扱われている。しかし人懐っこい犬でさえ警戒心や攻撃性を示し、狂暴に振る舞う個体がいる。ましてや知的な生命体である人間は、はるかに多くのことを考えるがゆえに、その行動の多様性は動物の比ではない。
人間はひとりでは生きることができない弱い生き物であるにもかかわらず、その弱さを補うために作られた社会は、最初から平和に統合できない根本的な矛盾を内包したまま存在してきた。だから周期的にその矛盾が衝突となって、社会の安泰を揺るがしている。
「人の不幸は自分の幸せだ」と豪語した若い頃の職場の先輩も、その構造の矛盾を見抜いていたのかもしれない。
人は誰でも幸せになりたい。なる権利もある。なることもできる。
しかし、突き詰めればこの矛盾の源は、個人が欲望をどう扱うかという「美学」の問題に行き着く。
わずかしかない食べ物を、
全員がひと匙ずつ分け合いながら、常に力不足のまま日々をしのぐ生き方と、
満足するだけの糧を確保し、その力で望む道を突き進もうとする生き方。
どちらに動くかは、その人の美学によって決まる。
美学とは、欲望をどのように選び取り、どのように制御し、どのように他者と共有するかという、生き方の哲学である。
人間は、工場の生産ラインで均質に製造された製品ではなく、自然に任せて誕生した偶然の産物である。品質や性能が一律であるはずがない。
そういう不揃いな生き物の集まりが人間社会だと思えば、何があっても腹は立たない。
その中に身を置き、どう生きていくのかを考えるために、人は学び、体験を積んでいるのだと思う。