人生の最終章の迎え方には、実に様々なスタイルがある。
第二の人生として新たな目標を掲げ、果敢に挑み続ける人もいる。
その姿は、まるで壮大な音楽に送られる映画のラストシーンのようで、思わず称賛の拍手が湧き上がる。
その一方で、私には静かにこの世との縁を整理しようという思いがゆっくりと芽生え始めている。
それは、逃避でも絶望でもない。
長いあいだ社会の荒波にもまれ、人との関わりの中を懸命に生きてきた。
その歳月を経て、「もう前のようには頑張るのはやめよう」と、思うようになったのだ。
これからは、少し違うかたちで周囲と関わっていきたい ―― その感覚が、ようやく自分の中で落ち着き始めている。
人間は、生まれるときも死ぬときも一人であるにもかかわらず、決して一人では生きていけない。
どれほど物質的に満たされても、それだけで充足できる人間はいない。
誰かと心を通わせてこそ、私たちは「生きている」という実感を得る。
人は他者との交わりの中でしか、自分の輪郭を確かめることができない。
喜びも、悲しみも、誇りも、劣等感も ―― そのほとんどは、他者という鏡を通して初めて立ち上がる。
人間とは、どこまで行っても他者との交感の中にしか、自己の存在を証明できない生き物なのだ。
しかし、人と関わることは、同時に割り切れない苦しみと同居する。
人生において最も強く魂を結びつける感情は「愛」だろう。
だが、それはあまりにも危うい。
愛があるからこそ、私たちは深い幸福を知り、愛があるからこそ深く傷つく。
幸福と苦痛の源泉が同じ場所にあるという矛盾を抱えながら、それでも誰かを愛さずにはいられないところに、人間のどうしようもなさと、いとおしさがある。
社会の中でその矛盾にもまれ、心が擦り切れた人が、傷を癒やすようにいったん「一人に戻ろう」とするのは、自然な流れなのだと思う。
人間とは、孤独の静寂と社会の喧騒のあいだを、行きつ戻りつしながら彷徨う宿命にある。
この世の苦しみから逃れるために、かつてすべてを捨てて出家の道を選んだ人たちがいる。
愛執に振り回されて自己が崩壊する前に、その源を断ち切ろうと髪を剃った者。
愛する者の死という絶対的な無常を前に、俗世との繋がりを自ら手放した者。
彼らは出家という儀式を通じて、それまでの人生を一度置き、別の座標から生き直そうとした。
ただ、社会との関係を断ったはずの僧侶たちも、完全に孤立して生きていけたわけではない。
托鉢によって人々から施しを受け、命をつないでいた。
彼らは社会を拒絶したのではなく、身を置く場所を変えることで、社会との距離を新しく定め直したのだ。
振り返れば、私もまた長いあいだ社会のただ中で、人との関わりに身を委ねて生きてきた。
喜びもあれば悔しさもあった。
信頼できる人との出会いもあれば、二度と戻りたくない場所もあった。
そうしたすべて含めて、「よくもまあ、ここまで来たものだ」と、今はどこか他人事のように感じることがある。
そのうえで最近になってようやく、「これから先は、少し違う歩き方をしてもいいのではないか」と思うようになった。
魂が濁るような場所からはそっと身を引き、本当に響き合うわずかな接点だけを、砂金をすくい上げるように大切にする。
喧騒から少し距離を置いた穏やかな静寂を生きる自分が、今の私にはとても自然に思える。
この「縁の整理」は、誰かに理解されるための選択ではない。
誰かを裁くための態度でもない。
ただ、これからの人生の最終章を、自分なりの静けさの中で、無理なく穏やかに生き抜くために、必要なかたちなのだと感じている。
心の内側でそっと、「そうやって生きていこう」と、自分に言い聞かせる。
そのささやかな独白こそが、今の私にとって、この世との縁を結び直す、いちばん自然なかたちなのだと思う。