私が現役を引退してからちょうど一年と四か月が経つ。この期間に去来した感情は一様ではなかった。その空虚感の底には、長年私の中で共存してきた二つの価値観の対立が、静かに横たわっていた。
最初に訪れたのは、「社会のお荷物になってしまった」という深い空虚感だった。極度の喪失感にも襲われ、自分の立ち位置すら見失った。
それは引退前には予想だにしなかったことだった。
むしろ仕事と言うお荷物をやっと肩からおろして、楽になった身体で安堵の時間を迎えられると確信していた。
確かに自分は荷物を下ろせたが、自分は下ろした荷物を社会に負わせていたのだ。
やがて私は「人生を振り返って見よう」と過去に向き合うようになり、やっと空虚感から抜け出すことができた。空虚感から抜け出せたのは、過去を辿ることで、「自分は何者であったか」を再確認できたからであった。
引退後一年も経つ頃には、新しい生活スタイルを自然に受け入れられるようになっていた。そして、今の私は人生の余白を歩きながら、肩の力を抜いて、一つひとつの出会いを大切に生きて行こうと考えている。
しかし、静かに満たされていた心の水面に、時折波紋が広がることに気づくようになった。同年輩の従弟や友人たち、あるいは私より若い人々の姿が、その水面に、忘れていた価値観の影をふっと落とすのである。
彼らは今でも現役で働いている。週三日の在宅勤務中心の人もいれば、医療に携わり開業医としてクリニックを構える人もいる。いずれも六十代から七十代を迎えながら、なお社会人として立派に活躍をしている人たちだ。
私の心の中に二人の人間がいる。
ひとりは「人生は楽しむためにあるので、働くためにあるのではない」と語る。
もうひとりは「働かざる者は食うべからず」「働くと言うのは人生の中心的な行為だ」と語る。
後者は、日本人の伝統的な人生哲学である。
私は日本人でありながら、生きてきた過程で前者の価値観を確信するようになった。スペイン留学体験で得た「人生は楽しむためにある」という信念は、今も静かに息づいている。
しかし、日本社会の価値観の中に身を置いていると、かつて距離を置いたはずの日本的な価値観が、静かに、しかし着実に存在感を取り戻してくる。その重さが、心に影を落とすのだ。
だからといって、私にはもはやその日本的な価値観に戻ろうという気持ちはないし、そんなつもりもない。
対照的なはっきりとした個性を持っている二人の自分は、心の奥で静かにせめぎ合いを続けている。
どちらも私自身であり、どちらも嘘ではない。
その二つの声が、私の心の水面に静かに波紋を広げ続けている。
社会のお荷物になったという無念な気持ちと、
やっと荷物を下ろせたという安堵の気持ち。
それを、私はどうすることもできない。
このひとつに収束することはない重なる波紋の中で、私はこれから「人生の余白」を歩いて行かなければならない。