昼寝をして夢を見た。夢の中で書きたいと思いついたテーマが浮かんだ。それをつい忘れそうになった私は、必死にパソコンを開いて取り急ぎタイトルだけ打ち込んで保存をした。そこで目が覚めた。結局そのテーマは覚えていない。
こんな虚しい夢を見るということは、私が日々、知恵を絞って思索に没頭していることの反映なのだろう。脳に血液を送り込み、人生の記憶を辿りながら、長い年月の景色の中から、一本の糸を手繰り寄せようとする作業である。
その糸が景色の中から突然ポンと飛び出してくることもあれば、どれほど目を凝らしても見えてこないこともある。
そんなふうに紡いでいる私のエッセイは、長くて内省を伴う哲学的テーマを扱ったものが多く、共感しやすい短文や日常の小ネタが多いnoteの中では、かなり少数派に属するのではないかと思う。
にもかかわらず、こんな読みにくいエッセイに着目して読んでくださる方には、心から敬意を表したい。
私にとってnoteという空間は「博物館」であり、私はその館内の、あまり訪問者が立ち寄らない薄暗い隅っこにひっそりと陳列されている。
もとより私が博物館入りを決めたのは、積極的に「観られたい・見せたい」という思いがあるからではなく、「人目が届く所で残っていたい」という美学に基づいた行為だった。
「残っている」という永続性は「消えていない」ということであり、いつでも誰でもその隅っこを訪れれば観ることが出来るという、客観性に支えられた状態である。
私は、片方でラテンの開放的な快楽の世界に共鳴しながら、もう片方ではそんな「理屈の世界」を大切にして生きてきた男だ。
こういう性癖は変わるものではないようだ。
私は人生で、自分の思いを文章に綴るということをしてこなかった。日記というものも一度も書いたことはない。自分がしたことを振り返ることもなく、次から次に新しいものに飛びついていったので、文章を綴る必要もなかったし、その機会もなかった。
それが現役引退を機に、一転して自分の過去を振り返るような状況になったころから、ペンを執るようになった。私は何かやり始めると、それが何であれ、納得するまで爆走を止めない性格だ。
日増しに私の文章は、善きにつけ悪しきにつけ「私らしさ」を濃くしてきたような気がする。
文章を書くことと写真を仕上げることは、私の中では同じ行為だ。私は撮影した写真を必要に応じて「画像処理」をし、意図した絵になるように調整することがある。使用する高度な画像処理ソフトで調整できる項目は多岐にわたるが、その中でも基本的なものが次の項目だ。
露光量(全体の明るさ)
コントラスト(明暗の差)
ハイライト(明るい部分の明るさ)
シャドウ(暗い部分の暗さ)
白レベル(白色の強さ)
黒レベル(黒色の濃さ)
明瞭度(画像の輪郭の際立ち)
色温度(全体の色の傾向)
色かぶり補正(不自然な色の偏りの修正)
彩度(着色の濃さ)
このような画像調整は作者の好みが強く反映される。
私のエッセイも、いつのまにか「心の画像処理ソフト」で全体の作風が出来上がるようになった。
それは私独自の世界であり、広く共感を求める類のものではないかもしれない。
でもそれが、紛れもなく私の作品なのだ。