アマチュアの泥沼 ―― スペックへのこだわりの功罪

かつて私がタイムラプス・フォトグラファーとして仕事に没頭していた頃、撮影機材選びに迷いはほとんどなかった。

日本ではまだ黎明期の分野であり、手探りで機材を揃えるしかなかったが、選択の基準は常に一つだけだった。 目的を実現するために必要な性能を備えているか。 それ以外の要素は、判断の外側にあった。

 

当時、私はニコンやキヤノンの一眼レフを使っていたが、選ぶのはいつも最新機種の一つ前のモデルだった。理由は単純で、必要な性能はすでに満たされており、それ以上の機能は使わないからだ。

どれほど画期的な新機能が搭載されていようと、プロとして必要としないものは、意味を持たなかった。

 

ところが ―― 昨年タイムラプス事業を畳み、長年使ってきた機材をすべて手放して一年が経った。

私は映像の世界で自分は燃え尽くしたと思っていた。しかし、私は人生でいつもカメラと自分の物語を紡いできたことを忘れていた。

思いがけない感情が胸を突いた。

「死ぬまで自分にふさわしい一台を手元に置きたい。」

その瞬間から、私の苦悩が始まった。機種選びである。

 

驚くべきことに、ついこの間まで仕事の世界で持っていた合理性は跡形もなく消えていた。

自分でも呆れるほど、欲が湧き出てくる。

「あのモデルのこの機能は素晴らしい。しかし、こちらと比べるとこの点が劣っている。」

そんな比較が延々と続く。YouTubeのレビュー動画を朝から晩まで漁り、AIでスペック表を突き合わせ、右に動画、左にAIを置いての無限比較が続いた。

 

必要かどうかは、もはや問題ではないのだ。胸を張って「これが自分だ」と言える一台を選びたい ―― そんな意味のない欲望が、自分の中に巣食っていることに気づく。

プロは機材を「手段」として扱う。アマチュアは機材を「自己像」として扱う。スペック比較とは、機材の比較ではなく、 自分がどんな人間でありたいかという理想像の比較なのだ。

 

この構造はカメラに限らない。

オーディオ、時計、車、楽器、万年筆、ゴルフ ―― あらゆる趣味の領域で同じ現象が起きている。メーカーが儲かるのはプロではなくアマチュアだ。

プロは「性能」で選び、アマチュアは「物語」で選ぶ。ロマンと言う、機能ではなく「自己物語の外部化」への投資である。

 

そしてロマンは、いつだって財布の厚みによって制限される。大金持ちでない限り、最後に立ちはだかるのは「お金」という現実の壁だ。足元や先々を考えると、その壁はいつも高く、厚い。ありがたい歯止めであり、同時に深いため息の源でもある。

 

私も高い壁を前に、なんとか納得と妥協ができる答えを見出した。私は長年いくつもの趣味の世界に生きてきた人間だ。いくつもの泥沼を経験しただけあって、多少は分別が付くようにはなった。

 

趣味の世界に、合理性はあまり馴染まない。

だからこそ、趣味の世界の奥行きは何処までも深い。

合理性が退いた場所に、ロマンが満ちる。

そしてロマンは、私たちがどんな人間でありたいかという「物語」の形をしている。

 

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